社史

アメリカと韓国 海外進出の明暗

 ヒビノの大型映像サービスが軌道に乗り始めると、次なる成長戦略として市場を海外に拡大する計画が持ち上がった。
 社長の日比野は、日本の高い映像技術=ハードと、アメリカのさまざまなイベント=ソフトを融合した理想的なビジネスモデルの実現を企図し、1991(平成3)年4月、カリフォルニア州アーバインに資本金150万ドルで現地法人「Hibino Audio-Visual USA Inc.」(以下、ヒビノUSA)を設立した。初代社長には、Crown(AMCRON)の輸入を通して長年にわたり信頼関係を築いていた横田功が就任。
 本社からは現場スタッフとしてAVCシステム事業部の社員1名、通訳兼事務担当として日比野(菊地)宏美(現 ヒビノGMC経営企画本部経理財務部海外課課長)が赴任。副社長・営業担当のジェームズ・アーバイン及び技術スタッフは、現地採用という形になった。
 事業領域は、プロジェクションキューブを主力機材とした大型映像サービスを主とし、のちに拡大する計画だった。
 初の受注イベントは、設立から2ヵ月ほどのちの6月、カリフォルニア州アナハイムのディズニーランドでのイベントだった。現地テレビ局のチャリティ番組のイベント会場にてプロジェクションキューブ9面の運用を担当。当初は別の会社に発注されていた案件だったが、その会社が都合で受けられなくなり、幸運にも設立したてのヒビノUSAに依頼が来たのだった。映像の調整には、本社のスタッフが渡米して当たり、ヒビノの映像技術はアメリカ・エンターテインメントのメッカで、高評価を得ることができた。

ヒビノUSAがサポートしたHewlett-Packardの展示会ブースヒビノUSAがサポートしたHewlett-Packardの展示会ブース

 ヒビノUSAの営業ターゲットは、展示会を中心に、企業イベントや学会、テレビ番組にも及んだ。特にNovell、Hewlett-Packard、WordPerfect、IntelといったITベンチャー企業のイベント映像を手掛けるようになり、その後の足掛かりとした。中でもソフトウェア開発会社のNovellは、アトランタで開催されたコンピューター関連の展示会COMDEXにおいて、プロジェクションキューブを120台使用した大規模なブースを構築した。
 ロサンゼルスのメインオフィスを拠点に、1993年に入るとラスベガスに機材管理センターを設置し、同年秋には東海岸のニュージャージーにオフィスを開設した。そして1994年、中部の大都市シカゴにあった同業のData Display社を買収する形で、新たにシカゴオフィスを、また同年の年末に自動車産業の中心地であるデトロイトにもオフィスを開設して、全米に営業ネットワークを広げていった。
 アメリカ市場でも、ヒビノの高品位な映像機器と技術を提供するというのが、本社の意向だった。しかし、アメリカのイベント映像マーケットは中間業者を通さない直取引きが多く、総じてクオリティよりもコストに厳しかった。言い換えれば、美しい映像よりもレンタル料の安さが求められたため、商談はなかなかまとまらなかった。

NABショーでのデモンストレーション。アストロビジョン(1994年)NABショーでのデモンストレーション。アストロビジョン(1994年)

 1994年には車載型アストロビジョンを1年間の期限つきでアメリカに運び、同年ラスベガスで行われたNABショー(全米放送事業者協会主催の世界最大の放送機器展覧会)でデモンストレーションを展開したところ高い評価を得て、次にテレビ局MTVから、フロリダで行われるイベント「MTV ビデオ ミュージック アワード」への協力を求められた。宣伝効果を期待して、スタッフは西海岸のカリフォルニアから東海岸のフロリダまで、アストロビジョンを駆ったのである。イベントは成功を収めたものの、残念ながらその後の展開にはつながらなかった。
 州法による規制の違いなど、さまざまな商習慣の違いによってヒビノUSAは苦戦を強いられた結果、1995年8月には横田社長が退任。本社の成岡武・取締役AVC販売事業部事業部長(当時)が、新たにヒビノUSAの社長として経営の刷新を図ることとなった。
 これを機に本社をシカゴに移して他の拠点の整理を進め、アーバイン、デトロイト及びラスベガスのオフィスを順次閉鎖。同時に、これまでとは違ったフィールドでの新規顧客の開拓や、リピーターの掘り起こしを推進、同業他社との連携によって機材の現地調達ルートを開拓するなど、積極的な営業展開を図ったのである。また、これまでの営業網を生かして、新たに映像機器の販売業務も始めた結果、1995年にシカゴの「マイケル・ジョーダン・レストラン」へプロジェクションキューブ17面の納入に成功。続いてシカゴ交通局の管制センターへプロジェクター72台を納入、メンテナンス契約も結び、新たなビジネスが芽吹き始めていた。
 しかし上場準備を進める本社の意向もあり、1997年3月、ヒビノUSAは解散となった。1993年から現地駐在員として勤務した小山匠は「砂漠の中に単身乗り出していったような経験は貴重なものだった。その後のグローバル展開に多くの教訓を残したと思う」と述懐する。
 USAとほぼ同時期に、ヒビノとしては二度目の韓国進出も行った。
 1992年に韓国民主自民党(当時)の党イベントの映像サポート業務を担当すると、その後も起亜自動車の新車発表会、JINRO(眞露)社の体育イベント、KBSテレビの音楽番組などの案件が続いたことで、この機にアジア地区への業務拡大を図るべく、現地の同業会社と合弁会社を設立する話が持ち上がった。1993年8月、ソウル市に資本金12億ウォンで「HIBINO KOREA株式会社」(韓國HIBINO株式會社)を設立。ソウルモーターショーや釜山モーターショーなどを受注したが、現地パートナー会社との連携が思うように運ばず、2002年3月、全株式を売却し撤退した。

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※ここに掲載した情報は、2015年2月発行の「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より転載したものです。この記事の無断引用、無断転載を固く禁じます。

第3章 拡大期 1984〜1993

音と映像のプレゼンテーター誕生

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