社史

大型ビジョン時代の到来とイベント映像への挑戦

 1985(昭和60)年3月から9月にかけて、茨城県筑波郡(現 つくば市)に新たに設けられた筑波研究学園都市において「国際科学技術博覧会」(略称:科学万博−つくば ’85)が開催された。文字どおり「科学技術」を一大テーマとした博覧会であった。
 会場の巨大なシンボルとなったのは、ソニー株式会社が開発した大型映像表示装置「ジャンボトロン」であった。屋外に設置された横40m、縦25m、2,000インチもの巨大なカラービジョンは来場者の大きな注目を集めた。表示素子には「トリニライト」と呼ばれる蛍光表示管が採用され、家庭用のブラウン管の約30倍の明るさを実現し、日中の野外でも鮮明な画像が表示された。
 大型映像表示装置(大型ビジョン)は、松下通信工業株式会社(現 パナソニック モバイルコミュニケーションズ株式会社)の「アストロビジョン」、三菱電機株式会社の「オーロラビジョン」など、大手家電メーカー各社が技術の粋を集めて開発を競った。つくば科学万博は、各社の大型ビジョンの見本市のような様相を呈し、市場拡大の契機となった。
 ヒビノの映像サービス事業は、1985年の大型ビジョン元年を期に、新たな発展の方向性を「イベント映像」に求めた。映像部の担当者は日比野晃久と、晃久の高校・大学の後輩である佐々木晃(現 ヒビノビジュアル Div.営業部部長)ら計4名、白金の本社には専用のデスクもなく、AVC販売事業部の一部を間借りして作業を行うという、徒手空拳からのスタートだった。
 晃久は、株式会社電通映画社(現 株式会社電通テック)をはじめとするイベント企画会社に精力的な営業をかけた。当時、マルチビジョン拡大器は16面(4×4)用のものが一般的だったが、25面(5×5)用のものを導入してより大型の映像表示に対応するなど、同業他社との差別化を図りながら、マルチビジョンをベースとする映像機材のレンタルと運用業務の獲得に奔走した。

第26回東京モーターショー1985 日産ブース。初のモーターショー受注第26回東京モーターショー1985 日産ブース。初のモーターショー受注

 大型映像の活用という点において代表的なイベントの筆頭が、「東京モーターショー」であった。映像部はAVC販売事業部の顧客であった三友株式会社を通じて、第26回東京モーターショー1985の日産ブースの映像表示を受注した。しかし当時の映像部には機材もノウハウも足りなかった。必要な機材をかき集め、現場は試行錯誤の中で、なんとか会期を乗り切った。
 東京モーターショーという表舞台で貴重な実績と運用経験を得たことで、事業の成長に弾みがついた。その後、経験と意欲のある若い映像専門スタッフが続々と入社し、獲得案件は徐々に増えていった。

「光が丘IMA」オープニングイベント(1987年)「光が丘IMA」オープニングイベント(1987年)

 1987年4月の「光が丘IMA」オープニングイベントでは、26インチから37インチまで5種類のCRTモニターを計126台使用するという大胆かつアーティスティックな映像演出にも対応した。周辺機器を含めた機材への惜しみない投資と、若いスタッフの貪欲なまでのノウハウの吸収力は、“どんな案件でも実現してしまう会社”として、評判を高めていった。

第27回東京モーターショー1987 日産ブースのマルチビジョン第27回東京モーターショー1987 日産ブースのマルチビジョン

第27回東京モーターショー1987 スバルブースのマルチビジョン(左)とサークルマルチビジョン(右)第27回東京モーターショー1987 スバルブースのマルチビジョン(左)とサークルマルチビジョン(右)

 第27回東京モーターショー1987では、日産に加えてスバルブースの受注にも成功した。既製の機材では満足できず、“ヒビノ仕様”の機材を作るという伝統は、映像部にも受け継がれ、33インチのCRTモニター10台を円筒状に構成する「サークルマルチビジョン」、映像演出に用いるマトリクススイッチャー、マルチビジョンの映像再生を制御するソフトウェア「HBコンパイラ」などを独自に開発・運用することによって、その映像クオリティと高い技術力が注目を浴びることとなった。特に映像部が開発に関与したHBコンパイラは、ファクトリーオートメーションのソフトを応用したもので、1フレーム(1/30秒)ごとの映像制御を可能にすることで、マルチビジョンの映像再生をズレなくスムーズに行うという画期的なものだった。
 モーターショーのほかにも、「ビジネスシヨウ」「エレクトロニクスショー」及び「データショウ(現 CEATEC JAPAN)」といった国際展示会や企業イベントの案件を数多く手掛けていく中で、日比野晃久以下映像部のスタッフたちは、ハイレベルな映像が要求されるシビアな現場で、時に寝食を忘れて機材の調整やカスタマイズに取り組みながら、実績を積み重ねていった。

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※ここに掲載した情報は、2015年2月発行の「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より転載したものです。この記事の無断引用、無断転載を固く禁じます。

第3章 拡大期 1984〜1993

音と映像のプレゼンテーター誕生

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