社史

17歳でテレビ受像機の自作に成功する

日比野宏明が17歳で自作したテレビ受像機日比野宏明が17歳で自作したテレビ受像機 テレビ製作のために自作した測定器テレビ製作のために自作した測定器

 そんな高校生活の合間に、日比野はある漫画作品に出会い、自分の将来に思いをめぐらせた。ふと目を通したその漫画には、近い将来に実現されるであろう人類の「夢」がいくつも描かれていた。人間を乗せて宇宙に行けるロケット、遠く離れた場所の出来事を映すことのできるテレビジョン……科学文明の発達によって大きく進歩する未来の姿に、心が躍った。特にテレビに対する興味が、強く芽生えた。
 戦前から欧米各国ではテレビの実用化が進められ、日本でもNHKがテレビ放送を始める計画があることを知った日比野は、興味のおもむくままに「テレビ受像機を作ってみよう」と思い立った。
 すべては独学だった。文献を集めてテレビ受像装置の基本的な仕組みを学び、米軍の放出品から真空管やブラウン管などの主要部品を手に入れた。特にテレビ用のブラウン管は高価だったため、5インチの測定器用のオシロスコープで代用することにして、アンテナやコイルなども次々と自作した。
 NHKは1953(昭和28)年2月のテレビ放送開始に先立って、1950年から毎週1日だけ2時間、試験用の放送電波を発信していた。日比野は自作のテレビでその電波をキャッチして、実際にブラウン管に映像を映し出してみようと考えた。
 試験放送の時間に合わせて、テレビの受像実験を繰り返した。しかしチューニングが上手くいかず、なかなか受像しない。そこで適切なチューニングをするための周波数測定器を作って、根気よく改良を重ねた結果、ついに受像に成功した。オシロスコープのブラウン管の発色は緑だったので、映像も緑がかってはいたが、確かに映っていた。

宏明が17歳で自作したテレビ(左)が映し出した映像(中)と画面を見る家族(右)宏明が17歳で自作したテレビ(左)が映し出した映像(中)と画面を見る家族(右)

 このとき、17歳。自作を思い立ってから、約2年の月日が流れていた。ブラウン管むき出しのテレビ受像装置が置かれた自宅の6畳間には、近所の人たちが大勢集まってきた。みな初めて見るテレビに釘づけとなり、驚きを隠さなかった。
「すごいね、おたくの息子さんは街の科学者だね」
 近所の人にそうほめられても、母は静かに受け流していた。テレビの製作に没頭する息子を何もいわずにそっと見守っているような人だったという。
 テレビを自作した「街の科学者」の評判は、さらに広まった。評判を聞きつけた人からラジオや電蓄の組み立て注文が、次々と舞い込むようになった。
 1953年2月、NHKがテレビ本放送を開始し、テレビ時代の幕が開いた。しかし同年1月に早川電機工業株式会社(現 シャープ株式会社)が発売した国産第1号のテレビ受像機「TV3-14T」は、当時の価格で17万5,000円。まだまだ庶民には高嶺の花だった。
 電器店の店頭や、客寄せに導入した店に置かれた、いわゆる「街頭テレビ」の前には、毎日人だかりができた。ニュースやドラマ、スポーツ、音楽など、さまざまな映像をその場で見ることのできるテレビの魅力に、人々は惹きつけられた。
 これからは本格的なテレビの時代になると確信した日比野は、より高度なテレビ技術を学びたいと考えた。しかし、当時通っていた高校にはテレビ技術を専門とする教師が見当たらなかった。在学する意味を見出せなくなった日比野は、社会に出て学ぶことを決意し、高校に中退届を出した。

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※ここに掲載した情報は、2015年2月発行の「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より転載したものです。この記事の無断引用、無断転載を固く禁じます。

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