社史

会社員と電蓄販売の二足のわらじ

ミナミテレビ時代の日比野宏明。テレビの納入・セッティングを行った湯河原の旅館ロビーにてミナミテレビ時代の日比野宏明。テレビの納入・セッティングを行った湯河原の旅館ロビーにて

 1953(昭和28)年4月、日比野は海外製テレビの輸入販売を行っていたミナミテレビ株式会社に採用された。入社希望者は100人を超える狭き門だったが、テレビを自作した経験が見込まれて、わずか3名の採用者のうちの一人となった。
 担当業務はテレビのサービスエンジニア。当時のテレビは故障も多かったため、アフターサービスとして顧客を一軒一軒回って修理する仕事を任された。
 テレビを製作することで蓄えていた知識と技術は、現場に出てすぐに生きた。ある日、上司に当たるエンジニアが1週間かかっても直せなかった故障品を、わずか1時間で直してしまった。内心誇らしく思ったが、結果は上司や同僚の妬みを買うこととなり、日比野は実社会の人間関係の難しさを味わった。
 若い日比野にとっては、毎日の仕事が貴重な社会経験の場となった。当時テレビを個人で所有する顧客といえば、いわゆる富裕層だった。サービスに回る家は大邸宅ばかり。中には大企業の社長の愛人や、やくざの親分もいた。そこには社会の縮図があった。

自作機。出力50W 6AC7 Hi-Fiメインアンプ(ミナミテレビ時代)自作機。出力50W 6AC7 Hi-Fiメインアンプ(ミナミテレビ時代)

上野の喫茶店「白鳥」へ納入前のHi-Fi音響装置と宏明のおじ。自宅にて上野の喫茶店「白鳥」へ納入前のHi-Fi音響装置と宏明のおじ。自宅にて

自作テレビ(ミナミテレビ時代)自作テレビ(ミナミテレビ時代)

自作電蓄自作電蓄

 就職後も、「街の科学者」に対する自作品の注文はひっきりなしに舞い込んだ。専門雑誌『ラジオと音響』1955年8月号に、口コミの注文によって製作したコンソール型Hi-Fi電蓄「6AQ5PP」の詳細な執筆記事が掲載されると、さらに評判が評判を生むという状況になった。
 こうして、会社から帰宅すると注文品の組み立て作業に取りかかるという多忙な日々を3年間続けた。この間、ミナミテレビでは100件以上の顧客と接し、エンジニアとしての腕を磨くと同時に、顧客対応の経験を積んだ。社会人としての自信を深めた日比野は、ついに独立することを決意する。まだ22歳だった。

日比野宏明の執筆記事が掲載された「ラジオと音響」(オーム社 刊、1955年8月号)
日比野宏明の執筆記事が掲載された『ラジオと音響』(オーム社 刊、1955年8月号)
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※ここに掲載した情報は、2015年2月発行のゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より転載したものです。この記事の無断引用、無断転載を固く禁じます。

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