社史

「ヒビノ電気音響株式会社」設立

喫茶店「御徒町リンデン店」に納品したHi-Fi音響装置(会社設立の頃)喫茶店「御徒町リンデン店」に納品したHi-Fi音響装置(会社設立の頃)

数台製作した喫茶店音響装置のプレイヤーとプリアンプ部分(会社設立の頃)数台製作した喫茶店音響装置のプレイヤーとプリアンプ部分(会社設立の頃)

 好調なテレビの製造・販売だったが、まもなく限界も見えてきた。量産体制に入った大手家電メーカーが安価なテレビを供給し始めたのだ。ここで日比野は一つの決断をする。開業以来手掛けてきた自作テレビの製造・販売をやめ、あらためて修理業務に特化するとともに、音響装置の製造・設置業務に力を入れていくことにしたのである。
 音楽喫茶がブームになった昭和30年代は、まだ一般家庭用のオーディオ機器が普及していなかった。1958(昭和33)年に日本ビクター株式会社(現 株式会社JVCケンウッド)が国内初のステレオコンポーネントシステム「STL-1S」を発売して以来、他のメーカーも家庭用オーディオ製品を続々発売したが、社会人の初任給が1万円程度だった頃に、STL-1Sは7万7,000円と非常に高価だった。いわば音楽喫茶は、レコードを「いい音」で聴きたいという人たちの受け皿だった。ブームが過熱するにつれ、各店は高価な海外メーカーのアンプやスピーカーを導入したり、ガラス張りのブースを作って音響設備を見せる演出を施すなど、競うように設備投資に力を入れた。
 1959年、日比野家に長女・宏美が誕生。手狭になった神楽坂から、台東区浅草橋2丁目に引っ越した。2年半後の1962年には長男・晃久が誕生し、日比野の仕事に対する情熱はいっそう高まった。
 移転先に浅草橋を選んだのは、秋葉原に近く、各種部品を調達しやすいという理由からだった。物件は裏通りの四軒長屋のうちの一軒で、7坪あまりの2階建てを購入して、1階を事務所、2階を自宅とした。その後社員が増えると、2階を改装して事務所を拡張し、一家は長屋向かいの小さな家に移り住んだ。
 浅草橋の新事務所は表通りに面していなかったせいか、移転直後は新規の注文がなかなか来なかった。そこで修理業務は電話1本で取れるからと、末尾4ケタが「5555」と覚えやすい番号を手に入れるため、当時の新入社員の給料10人分もの大金を捻出して番号を買い取った。また銭湯に看板広告を出したり、電話帳を頼りに営業用のダイレクトメールを発送するなど、考えつくことはなんでもした。音響装置の受注も、喫茶店主との直取引きだけでなく、店舗の設計・建築や内装を請け負う設計事務所や建築会社との提携も始め、近隣の会社との付き合いを広げようと、日比野はゴルフを始めたりもした。
 こうして取引先は増えていったが、悩みの種は求人だった。地方からの集団就職者を「金の卵」と呼んだ求人難の時代である。知人の紹介で採用してもすぐに辞めてしまったり、やっと定着してくれたと思った人の背信行為により、やむなく解雇せざるを得なくなったりと、日比野は経営の難しさに直面した。人が増えれば増えたで、純子は人件費や仕入れの代金など、資金繰りで苦労を強いられた。月が変わるごとに「今月もなんとか保った」と、胸をなで下ろし、「明日の朝が来なければいい」と思う時期もあったという。
 音楽好きの日比野にとって、音楽喫茶の仕事は楽しみの多い分野でもあった。その頃のこと、ある音楽喫茶の店主から「JBLのパラゴンというスピーカーは、いい音がするそうだね」という話をされた。JBLのパラゴン(Paragon)は、1957年にアメリカで開発されたスピーカーシステムで、左右各3-Wayのスピーカーを一体のエンクロージャーの中に組み込むという構造が売りだった。まるで高級家具のようなデザインもまた個性的で、オーディオマニアにとっては垂涎の逸品だった。のちにJBLスピーカーを手掛けることになる日比野がJBLというブランドを認知したのも、このパラゴンが最初だった。
 日本では山水電気株式会社(当時)が1965年から輸入販売を開始し、販売価格は1台168万円。一般のマニアはもちろん、喫茶店主も購入に二の足を踏むほど高価な代物だった。日比野はパラゴンの存在を知るとともに興味を持ち、高価な実物を導入できずにいる顧客に対して、一つの提案をした。
「私が作りましょうか」
 専門雑誌に掲載されていたパラゴンの設計図をもとに、日比野は製作に取りかかった。独自の形状を持つ木製のエンクロージャーは、知り合いの木工業者に頼み込んで作ってもらった。いわゆるコピー品ではあったものの、顧客の要望に応えることは何よりの喜びであった。
 日比野は店舗の規模や予算に合わせて見積りから設計、スピーカーやアンプの製作、配線から施工まですべてこなした。たとえば、音響面に配慮し音圧分布が均等になるようスピーカーをレイアウトしたり、ガラス張りのブース内のラックにアンプをいくつも並べてはめ込んだりした。またアンプパネルのメーターを大きく、立派に作るなどの工夫も凝らした。ずらりと並んだアンプメーターの針が、音楽に合わせて振れる様子は音楽喫茶に訪れる客を魅了する「アクセサリー」でもあったからである。
 仕事の丁寧さや音の良さが評判となり、御茶ノ水「丘」や新宿「穂高」などの大型喫茶店をはじめ都内の主要駅に近接する約500件もの喫茶店に音響装置を納入するまでシェアを拡大し、地方からも引き合いが来るようになった。

純喫茶の御茶ノ水「丘」(左)と新宿「穂高」(右)に納入した音響システム(会社設立当時)純喫茶の御茶ノ水「丘」(左)と新宿「穂高」(右)に納入した音響システム(会社設立当時)

 日比野は「好きなことを仕事にできる喜び」を純粋に感じていた。その一方で売上も伸び、従業員も10名を超えると、税金対策なども含めて事業の法人化が迫られた。好きなことを一生の仕事にするためにも、日比野は会社設立を決意した。
 東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の11月、資本金80万円で新会社「ヒビノ電気音響株式会社」を設立した。新会社の業務は業務用音響機器の設計・販売・修理。そして松下通信工業株式会社(現 パナソニック モバイルコミュニケーションズ株式会社)の特機販売代理店として、同社のインターホンやマイクロホン、スピーカーなども扱い始めた。
 当時の経営規模は月商800万円。大銀行との取り引きはなかなか叶わなかったが、中堅の平和相互銀行(当時)は、ヒビノの将来性を見抜き、たびたび融資の相談に応じてくれた。「あなたの会社は絶対に大きくなりますよ」という担当者の言葉に、純子は励まされる思いだった。

西澤ビル西澤ビル

営業部ミーティング営業部ミーティング

 社員が20名近くに達した1966年9月には、浅草橋2丁目から同4丁目の新築物件「西澤ビル」に移転した。「夢にまで見た社屋らしい社屋。塗り立てのペンキの匂いがする新築ビルの2階、19坪のフロアに新しく買いそろえた机が並んだのを見て、ようやく会社らしくなった感激は一生忘れられません」と、純子は当時を回顧する。
 日比野は、西澤ビル移転を機に、経営者としての自覚を新たにするとともに、社訓を制定することにした。尊敬するジョン・F・ケネディが提唱した開拓精神を参考に、経営の三本柱を定めた。
 一、信用を重んじ、誠意と信念を持って仕事に従事すべし
 一、仕事を通じ人間形成の場にすべし
 一、開拓精神に徹すべし
 新社屋での朝礼は、この社訓の暗唱から始まった。
 喫茶店音響の業務は、昭和40年代に入るとやや頭打ちとなり、日比野は新たな事業を模索するようになった。浅草橋4丁目に移転する前のことになるが、ある日の新聞の求人欄に「ジュークボックス」の文字を見つけ、アイデアがひらめいた。当時のジュークボックスの納入先は、喫茶店やバーが主だったため、音響機器の納入で信用があったヒビノ電気音響には有利なマーケットだと踏んだのである。
 硬貨を入れると自動で音楽を聴くことができるジュークボックス(Jukebox)は、1880年代の終わり頃にアメリカで発明され、1927年にAMI社がレコードを選択するタイプのジュークボックスを発売して成功を収めた。日本には戦後進駐軍が持ち込み、徐々に輸入され、普及が始まっていた。

ワ―リッツァー社のジュークボックス(左より:ステイツマン3400型、リリックコンパクト型IV型、キャリロン160型)ワ―リッツァー社のジュークボックス(左より:ステイツマン3400型、リリックコンパクト型IV型、キャリロン160型)

 日比野はデザイン性に優れ、当時世界最高といわれたワーリッツァー(Wurlitzer)社のジュークボックスを手掛けてみようと考えた。ワーリッツァーの輸入元は松下電器貿易株式会社、発売元は松下電器産業株式会社(ともに、現 パナソニック株式会社)で、同じグループの松下通信工業の特機販売代理店となっていた経緯から、契約交渉は比較的スムーズにいくだろうと考えたのである。
 しかし、ジュークボックスは高額商品であり、案に相違して経営規模の小さいヒビノ電気音響に対する審査は予想以上に厳しかった。1966年4月、なんとか販売代理店契約にこぎつけて営業を開始すると、予想どおりの売れ行きで、勢いを得て新しい納入先の開拓にも乗り出した。こうしてホテルや旅館、レジャー施設などにも販路を広げて、全国のワーリッツァー販売代理店の中でトップの成績を上げてみせた。

マイクロバスを改装したデモンストレーションカーと日比野宏明。ジュークボックス5台を搭載可能なこの車で地方へも営業に出向いたマイクロバスを改造したデモンストレーションカーと日比野宏明。ジュークボックス5台を搭載可能なこの車で地方へも営業に出向いた

 ジュークボックスのメンテナンスやレコードの交換は代理店の業務であったため、西澤ビルのフロアや自宅には、仕入れたEP(ドーナツ)盤のレコードがうず高く積まれるようになった。そんなある日、一人の青年が来社し、「僕の新曲をジュークボックスに入れてください」と、盛んにアピールしてきた。曲名は「星影のワルツ」。若き日の千昌夫だった。当時の流行歌手にとって、ジュークボックスに自分のレコードを入れてもらうことは、ヒットへの大きな足掛かりとなったことから、有名無名を問わず、自ら営業に訪れる歌手は少なくなかったのである。
 1967年に入るとビクター(Victor)社のジュークボックスの販売代理も始め、さらなる販路拡大を期して、千葉に出張所を開所した。しかし所長を任せた社員の不手際がもとで、大量の在庫を抱えるという事態が起こった。
 会社のピンチに、日比野は柔軟な発想で対処した。在庫をそのままにしていても仕方がない、売れないなら「貸そう」とレンタルを思いつき、営業を開始したのである。すると、これまでの営業先とは別のルートから引き合いが来て、同年5月には東武鉄道のロマンスカー車内への設置に成功するなど、新たな顧客を開拓した。

マイクロバスを改装したデモンストレーションカーと日比野宏明。ジュークボックス5台を搭載可能なこの車で地方へも営業に出向いた東武鉄道ロマンスカーのサロンルームに設置したジュークボックス

 ジュークボックスは1台100万円以上もする高額商品ゆえ、ひと通り市場に出回ると売上は鈍化したが、レンタルに切り換えることで新たな販路の獲得とともに、レンタル料という一定の収入が見込め、むしろ経営の安定につながった。
 「思いついたらすぐ実行」というスピード感あふれる日比野の経営感覚は、その後もあらゆる場面で発揮されることとなる。
 1969年2月、西田孝信(のちの常務取締役)が入社する。西田は1927年生まれで、日比野より7歳年上だったが、株式会社商工組合中央金庫や富士金属工業株式会社でキャリアを積み、計数管理に長けた人物だった。その後の事業の拡大とともに、部門別の利益管理など、西田の経営的なセンスがヒビノの成長を支えることとなる。ものづくりからスタートした日比野にとって、数字に明るい西田は心強い存在であり、現場主義の日比野を支える良きサポート役であった。
 同年、日比野はある流通業者の誘いで、初めてのアメリカ視察旅行に赴いた。そこで現地のジュークボックス関連の市場が下火になってきていることを知ると、その波がすぐに日本にもやってくると直感した。
「ジュークボックスの次は何か」
 日比野は帰国後、また新たな事業を模索することとなった。

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※ここに掲載した情報は、2015年2月発行の「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より転載したものです。この記事の無断引用、無断転載を固く禁じます。

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