社史

Shureとの出会い

Shure「ボーカルマスター」ラインアップ VA302(左上)、PM300(左下)、VA301-S(中)、VA300-S(右)Shure「ボーカルマスター」ラインアップ VA302(左上)、PM300(左下)、VA301-S(中)、VA300-S(右)

 1970(昭和45)年3月から9月にかけて、大阪・千里丘陵で「日本万国博覧会」(略称:大阪万博)が開催された。「人類の進歩と調和」というテーマのもと、戦後日本の復興を印象づける国家的イベントとして、6,421万人を超える来場者数を記録した。世界各国の政府パビリオンや企業パビリオン、連日催される各種イベントでは、当時の最先端テクノロジーを駆使した音響機器や映像機器が投入され、さながら見本市のようであった。
 会場に足を運んだ日比野は、万国博ホールで行われた「セルジオ・メンデス&ブラジル '66」のライブコンサートで使用されていた音響機材に注目した。スピーカーから聴こえてくる声が、とてもクリアだったからだ。使用されていたのはアメリカShure社のボーカルアンプ(スピーカーシステム)。特に同社のマイクロホンは当時世界トップシェアを誇る逸品だった。
 マイクロホンの良さもさることながら、人の声を会場の隅々に行き渡らせることに最適化されたボーカルアンプは、クリアでパワフルな音質であり、かつ非常にコンパクトな筐体だった。これなら国内のコンサートや舞台の音響装置として売り込めると考えた日比野は、帰京後、Shureの総輸入元だったバルコムトレーディングカンパニー(現 バルコム株式会社)と交渉し、同年8月には国内販売代理業務を開始した。

Shureボーカルマスターと営業車(1970年8月)Shureボーカルマスターと営業車(1970年8月)

 Shureはステージ用のマイクロホンとともに、「ボーカルマスター」という名称で、パワーアンプを搭載した6chミキシングコンソール「VA302」、トーンゾイレ型スピーカー「VA300-S」「VA301-S」、パワーアンプ「PM300」による一式100万円を超えるスピーカーシステムをラインアップしていた。
 当時の日本ではまだPA(Public Address)あるいはSR(Sound Reinforcement)という概念は確立しておらず、コンサートの際には各ホール据え付けの音響装置をそのまま使うのが一般的だった。マイクロホンを使うのは基本的に歌手だけで、楽器の演奏は生の音が当たり前、音響装置の調整もホール専属のオペレーターに任せるのが普通だった。
 “いい声をよりいい音で聴かせられる”スピーカーシステムが普及すれば、日本のコンサートホールや劇場の「音質」は格段に向上する。日比野はこの画期的な製品に惚れ込んだ。
「ジュークボックスはやめる。次は舞台音響だ」
 ヒビノ電気音響の資本金は、設立当初の80万円から1970年6月には1,000万円まで増資されていたが、高価格商品を扱うようになればなるほど、調達資金のコストはかさむ一方だった。それでも、日比野は一度こうと決めたら、すぐに動いた。自らの目利きには絶対の自信を持っていた。
 しかし、Shure製品の販売開始当時は、1ドル=360円の固定相場制の時代であり、いかに魅力ある製品とはいえ、高価な輸入品はなかなか売れるものではなかった。倉庫はみるみる在庫の山となった。
 営業担当の幹部社員がある日、日比野の自宅を訪れた。そして悲壮な面持ちでこう訴えた。
「われわれも努力していますが、高価すぎるShureは売れません。このままでは会社の命取りになるので、販売をやめてもらえませんか」
 実際に使ってもらえば、品質の良さを分かってもらえるはずだ……一計を案じた日比野は、音楽関係者に向けてマイクロホンとボーカルアンプのデモンストレーションを行うことを思いついた。日比野はジュークボックスを手掛けていた頃の伝手を頼りにしたり、あるいは東京厚生年金会館に行き、会場でコンサートを開く歌手やバンドに直接アプローチを試みた。
「使用料はタダで良いので、とにかく一度使ってみてください」
 そしてボーカルマスターをセッティングしてオペレートまでもサービスしたのである。
 実際にShureの良さを体感してもらえば、きっといい反応が返ってくるはずだと確信していた日比野の狙いは見事に当たった。デモで使ったShure製品を、自分専用に購入したいという希望者が現れ始めたのだ。
 購入者第1号は、なんと国民的歌手の三波春夫だった。また、沢田研二と萩原健一のツインボーカルによるドリームバンド「PYG(ピッグ)」も購入。その後も問い合わせが相次ぎ、営業活動に勢いがつき始めた。

Shureボーカルマスターのデモンストレーション(1970年)Shureボーカルマスターのデモンストレーション(1970年)

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※ここに掲載した情報は、2015年2月発行の「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より転載したものです。この記事の無断引用、無断転載を固く禁じます。

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