社史

海外トップアーティストのコンサート音響を次々と手掛ける

フランク・シナトラ(日本武道館、1974年)。アリーナ中央のステージとオーケストラピット(写真:『無線と実験』誠文堂新光社 刊、1974年8月号より転載)フランク・シナトラ(日本武道館、1974年)。
アリーナ中央のステージとオーケストラピット
(写真:『無線と実験』誠文堂新光社 刊、1974年8月号より転載)

天井から吊ったメインスピーカーシステム(写真:『無線と実験』誠文堂新光社 刊、1974年8月号より転載)天井から吊ったメインスピーカーシステム
(写真:『無線と実験』誠文堂新光社 刊、1974年8月号より転載)

 「箱根アフロディーテ」におけるピンク・フロイドの音響サポート、そしてトム・ジョーンズの日本武道館公演における国内初のフライングスピーカーシステムを実現し、その後PA事業部は、海外のトップアーティストのコンサート音響を次々と手掛けていくこととなる。
 社長の日比野は、一流のアーティストが要求する一流の機材を常に提供できる体制こそが、ヒビノのコンサート音響事業の核であると考え、機材への先行投資を積極的に進めた。特に販売代理店契約を結んでいたJBLとShureの二大ブランドについては、業界随一の機材量を持つ会社として認知されるようになった。
 1974(昭和49)年3月、コンサート音響事業を現場から牽引していくこととなる宮本宰(元 取締役PA事業部事業部長)と橋本良一(現 取締役ヒビノサウンド Div.事業部長)が相次いで入社する。宮本はカレッジポップス、橋本はフォークグループ「六文銭」のベーシストとして、大学在学中から音楽活動に没頭していたミュージシャンだった。その後、音響技術への興味からヒビノと出会ったこと、また大学では理系専攻という点でも共通項の多い二人だった。
 同年7月、フランク・シナトラ日本武道館公演で、再びフライングスピーカーシステムが採用されることになり、実績のあるヒビノが担当することとなった。“世界のシナトラ”の仕事ということもあり、社長の日比野を筆頭に、宮本らPA事業部のスタッフが総出でセッティングの作業に当たった。
 そんな中、バックバンドのリハーサル中にノイズが発生するという事態が起こり、会場は張り詰めた空気に包まれた。ノイズの原因がヒビノのスピーカーなのか、あるいはシナトラ側が持ち込んだミキシングコンソールなどの機材なのかをめぐり、一触即発となる場面もあったという。ヒビノのスタッフの中で唯一英語が話せた宮本は、シナトラ側のPAオペレーターやスタッフとコミュニケーションをとり、協力して原因を突き止めようと促し、なんとか解決を見たのだった。コンサートは無事挙行され、武道館のフライングスピーカーシステムは、1万人の大観衆を再び魅了した。
 続いて1974年11月には、ともに初来日となったエリック・クラプトンとスージー・クアトロ、ミレイユ・マチュー、12月はアダモ、マレーネ・ディートリッヒ、ポインター・シスターズ、ザ・テンプテーションズ、ウォーと、ロックからポピュラー、ソウルなど、さまざまなジャンルのビッグアーティストのコンサート音響をサポートし、実績を積み上げていった。
 もしこの時点で、社長の日比野が費用対効果を優先して、機材への投資を抑える方針をとっていたとしたら、コンサート音響事業の成長はなかったといっていい。同時に複数の公演に対応できる大量の機材購入に、惜しみなく投資を続けることで、「ヒビノに頼めばなんでもそろう」という評判が、さらなる評判を呼んだのだ。

エリック・クラプトン(日本武道館、1974年):JBLオリジナルマルチウェイスピーカーを運用(写真:『無線と実験』誠文堂新光社 刊、1975年1月号より転載)

エリック・クラプトン(日本武道館、1974年):JBLオリジナルマルチウェイスピーカーを運用(左)、アリーナ席中央のPAブース。ヒビノ製16chミキシングコンソール2台(右)(写真:『無線と実験』誠文堂新光社 刊、1975年1月号より転載)エリック・クラプトン(日本武道館、1974年):JBLオリジナルマルチウェイスピーカーを運用(上・下左)、アリーナ席中央のPAブース。ヒビノ製16chミキシングコンソール2台(下右)(写真:『無線と実験』誠文堂新光社 刊、1975年1月号より転載)

 1974年当時、ヒビノのメインスピーカーシステムは、JBLの低域エンクロージャー「4560」、高域ラジアルホーン「2350+2440」を組み合わせたオリジナル2-Wayシステムから、中域ラジアルホーン「2350+2482」を加えた3-Wayシステム、さらにスーパーツイーター「2405」を加えた4-Wayシステムまで完成し、またShureのボーカルアンプ「VA300-S」「VA301-S」も引き続き使用していた。パワーアンプはShure「PM300」とPhase Linear。そしてミキシングコンソールは日比野が独自に製作した日本初のPA用16chミキシングコンソールとタムラの12chミキシングコンソール「TS-1201」、Shureのパワーアンプを搭載した6chミキシングコンソール「VA302」を併用。海外の一流アーティストが要求する高いレベルのPAに対応するシステムを構築していた。
 1975年3月のバッド・カンパニー来日公演では、3-Wayスピーカーシステムを使用し、ミキシングコンソールにはヤマハの「PM1000」を初めて導入している。同年5月のスリー・ドッグ・ナイト、グランド・ファンク・レイルロードの来日コンサートツアーでは、これまでの4-Wayにバックロードホーン「4520」を組み合わせた5-Wayとなり、国内初の大会場仕様のJBL大型マルチウェイシステムの運用を開始した。日本武道館公演では、そのあまりの大音量が騒音防止条例に抵触する可能性があるとして、東京消防庁が音圧の計測に入るというエピソードが残っている(結果、抵触せず)。
 ロックの生演奏の迫力を極限まで引き出すヒビノのPAシステムは、「ロックのヒビノ」としてのステータスを確立した。

スリー・ドッグ・ナイト(日本武道館、1975年)。JBLオリジナル6-Wayスピーカーシステムを運用スリー・ドッグ・ナイト(日本武道館、1975年)。JBLオリジナル5-Wayスピーカーシステムを運用

「ワールド・ロック・フェスティバル」(後楽園球場、1975年)。JBLオリジナル5-Wayスピーカーシステムを運用「ワールド・ロック・フェスティバル」(後楽園球場、1975年)。JBLオリジナル5-Wayスピーカーシステムを運用

 同年8月には、大型ロックフェスティバルツアーとしては日本初といわれる「ワールド・ロック・フェスティバル」の音響を全面的にサポート。8月3日の札幌・真駒内競技場を皮切りに、5日名古屋・愛知県体育館、6日京都・円山公園野外音楽堂、7日東京・後楽園球場、9日仙台・菅生トレールランドと続いたこのツアーの出演者は、日本のイエロー、カルメン・マキ&OZ、クリエイション、四人囃子、海外からはジェフ・ベック、ニューヨーク・ドールズ、そして日米混成のフェリックス・パッパラルディ with ジョー(=ジョー山中)と、豪華なラインアップだった。
 会場が異なるツアーにおいて、さまざまな音楽性を持ったバンドの音に的確に対応しなければならないという難しい条件下でも、ヒビノのPAの実力は遺憾なく発揮された。
 この時期、具体的には1973年から76年にかけて、社長の日比野は専門雑誌『無線と実験』に連載記事を執筆している。執筆に至った経緯は、同雑誌のPAに関する記事の誤りに気づいた日比野が版元に問い合わせたところ、「それほど詳しいのならば、記事を書いてほしい」と依頼されたことが始まりだった。当時の専門雑誌は、PA関係者はもちろん、エンジニア予備軍や理系の学生などに幅広く読まれていたため、日比野自身や会社の知名度は大いに上がった。その宣伝効果により、販売商品の売上もアップし、また優れた人材の確保にも効果を発揮した。

雑誌「無線と実験」誠文堂新光社 刊。1973年9月号に始まった「PAテクニック」の連載は3年以上に及んだ雑誌『無線と実験』誠文堂新光社 刊。1973年9月号に始まった「PAテクニック」の連載は3年以上に及んだ

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※ここに掲載した情報は、2015年2月発行の「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より転載したものです。この記事の無断引用、無断転載を固く禁じます。

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