社史

"機材レンタルでは終わらない"PAエンジニアの台頭

サンタナ(日本武道館、1976年)サンタナ(日本武道館、1976年)

 コンサート音響事業の拡大により、所有する機材の量は増え続けた。当初は複数のレンタル倉庫に分散して保管していたが、いよいよ非効率であるということから、1976(昭和51)年6月、東京都港区白金に新規事業所を開設し、同所にPA事業部を移転した。北里大学病院に程近い、バルブ工場跡地の110坪、2階建ての1階がPA事業部のオフィスと機材倉庫、2階は社長宅となった。そして同9月には、本社所在地を台東区浅草橋2丁目から同4丁目へ移転する手続きをした。

白金の事業所白金の事業所

 高度成長期を迎えた日本の音楽マーケットは、急速に拡大した。世界的なアーティストの日本公演が大会場で行われることが恒常化するとともに、競合する機材サービス会社が次々と現れていた。ライバル企業が増え、レンタル料金の価格競争が始まれば、利益の幅はおのずと限られてくる。豊富な機材を持つという優位性だけでは、いずれ限界が来ることは予想できた。
 コンサート音響事業のスタート当初は、社長の日比野自ら、オペレーターを務めることも多かった。しかし、海外の一流アーティストの多くは、専任のミキシングエンジニアを抱えていた。
 ヒビノのPAスタッフは、機材セッティングのかたわらで、海外エンジニアとの仕事を通じて本場のミキシング技術をこつこつと習得していった。ともにミュージシャンとしての経歴を持ち、音響技術に対する興味を抱いてヒビノに入社した宮本と橋本は、「レンタル業では終わりたくない」という志を抱いていた。
 入社してすぐの頃は、憧れのJBLスピーカーをはじめとする豊富な機材を扱えることや、一流のアーティストの生の音に触れられることの喜びのほうが上回っていた。しかし、海外のPAエンジニアの仕事に接することで、PA本来の醍醐味を知ることとなった。
 同じ機材であっても、部材を変えて独自のチューニングを施すことで、まったく違う音を作り出せること、またミキシングの技術を高めることによって、より豊かな音空間を作り出せること──若い二人は、ハードのレンタルのみならず、「PAエンジニアリング」という高付加価値なソフトとしてのサービスを、ヒビノのコンサート音響事業の中に確立しようと考えた。
 JBLのスピーカーシステムは、そのままで使用しても十分な音量と音圧を確保できる高い性能を持っていた。特に大型のコンサート会場で大音量を鳴らすという点においては、当時JBLを凌駕するスピーカーは事実上ないに等しかった。
 しかし、国内外のさまざまなアーティストのコンサートで経験を積むにつれて、宮本と橋本は「もっといい音で鳴らせないものか」と、考えるようになっていた。
 一つの大きなきっかけとなったのは、1976年5月、イギリスのロックバンド、スーパートランプの初来日コンサートだった。同バンドはスピーカーシステムやミキシングコンソールなどの主要音響機材を持ち込んで運用していた。
 この公演はヒビノの担当案件ではなかったものの、「すごい音を出しているから、聴いたほうがいい」と、招聘元のウドー音楽事務所の石谷正和氏から連絡を受け、同氏の計らいにより、宮本は中野サンプラザで行われたコンサートを生で聴くことができた。
「自分たちの音と、明らかに違う」
 宮本は強い衝撃を受けた。
 クリアでくっきりとした低音や高音が、まるで客席の中に直接飛んでくるような感覚だった。使用されていたスピーカーシステムは、イギリスのMartin Audio社というメーカーのものだった。
 「これが、自分が出したい音のイメージかもしれない」と大いに触発された宮本は、明確な方向性を見出したことで、オリジナルのスピーカーシステムの開発を決意する。一連の話を聞いた日比野は「新しいものができるというなら、やってみるといい」と、サポートを約束した。

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※ここに掲載した情報は、2015年2月発行の「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より転載したものです。この記事の無断引用、無断転載を固く禁じます。

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