社史

大阪出張所の開所

 ヒビノのコンサート音響事業が国内外の一流アーティストに浸透し、事業拡大の気運が高まった。新たな拠点として挙がったのは、第二の都市・大阪。1983(昭和58)年10月には1万6,000人を収容する「大阪城ホール」の開場も予定され、コンサート需要のさらなる拡大が見込まれていた。
 計画当初は現地の同業他社との業務提携も模索されたが、現場の意向は、ヒビノのブランドを任せられるような、関西エリアでの実績と人脈が豊富な人物を選ぶべきだというものだった。そこで白羽の矢が立ったのは、ヤマハ出身で、フリーのオペレーターとしてヒビノの仕事にも参加していた徳平佳久だった。
 宮本と徳平は、1979年6月の松崎しげるのコンサートで出会い、82年の矢沢永吉ツアーの際には、橋本の要請で徳平がモニターエンジニアを務めるなど、現場を通じて信頼関係を築いていた。
 日比野は現場の意向を受け入れて、徳平に大阪を任せることにした。徳平は、ヤマハのレコーディングエンジニアだった村和明を誘い、1983年7月、大阪出張所を開所した。大阪市淀川区のマンション(ユニーブル新大阪)の一室に事務所を構え、所員2名、アルバイト2名、電話1台からのスタートとなった。
 徳平は、人材の確保や営業活動にいそしんだ。すでにヒビノの豊富な機材と技術力は現地で知れ渡っていたが、同業他社が地盤を固めている中に新規参入業者として割って入ることは容易ではなかった。開所したばかりの頃は、日に一度も電話が鳴らないこともたびたびだったという。
 当初は学園祭や小規模なイベントの仕事を地道に始め、最初の足掛かりとなったのは、1984年7月28、29日に大阪南港特設会場で開催された「JAM JAM ROCK」だった。同イベントは、1981年から本社と取り引きを開始していた日本有数の芸能事務所である渡辺プロダクションからの案件で、「夏フェス」の原型の一つともいわれる大型野外コンサートであった。
 この実績が一つの突破口となり、その後関西エリアだけでなく、四国や九州エリアでの野外イベントの受注につながっていった。
 今もPAの世界は、「人」と「人」との信頼関係が大切にされるが、徳平によれば、大阪のPA業界は東京に比べてマーケットが小さいこともあり、業界内での横のつながりが強かった。ライバルでありながら、互いの仕事を認め合う関係となれば、人手や機材が足りないときは互いに融通し合うこともあった。
 アン・ルイスや子供バンドらが出演した1984年のJAM JAM ROCKはあいにくのどしゃ降りとなったが、同業の株式会社モブの藤井修三社長(現 株式会社日本エム・エス・アイ会長)が、長年交流があった徳平と村を気遣って、雨具やブルーシートを持参し、若手を連れてヘルプに駆けつけたというエピソードが残っている。
 こうした大阪独特の風土の中で、大阪出張所は新たな顧客を模索する一方、PAエンジニアの人材発掘にも力を入れた。

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※ここに掲載した情報は、2015年2月発行の「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より転載したものです。この記事の無断引用、無断転載を固く禁じます。

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