Roots of Hibino

ヒビノのルーツ

第3章 拡大期 1984─1993 音と映像のプレゼンテーター誕生

第1節 来たるべきAVCC時代に向けて──経営方針の転換

ヒビノ電気音響は、テレビの販売・修理業務に始まり、喫茶店音響、ジュークボックスの販売・レンタルを経て、日本では未開拓だったコンサート音響分野を事業化するなど、時代の一歩先を行くスピード感をもって、成長を遂げてきた。コンサート音響事業においてはレンタルからオペレート、そしてエンジニアリングと新たな領域を開拓し、業界トップの地位を確立した。1983(昭和58)年10月、PA事業部は東京都港区港南(現在の本社所在地)に移転し、翌11月には本社所在地を台東区浅草橋4丁目から港区白金に移転した。

社長の日比野は、1971年4月のPA事業部立ち上げ以来、現場の要求には最大限応えるというポリシーのもと、最新機材の購入やオリジナル機材の開発に惜しみない投資を行ってきた。

現場はその期待に沿うべく、PAの技術と経験を蓄積し、国内外の一流アーティストと信頼関係を築いて、「PAのヒビノ」というブランドを作り上げてきた。

日比野は自らが開拓し育ててきた「PAのヒビノ」に対する愛着とプライドを抱きつつも、経営者としてそのポジションにとどまらなかった。会社の将来を見据えたとき、社名に冠した「音響」の分野だけでは、いずれ限界が来るだろうと予測していた。

1970年代後半からは家庭用VTR機器が登場し、83年末にはその普及率が10%を超え、ホームビデオという新たな映像メディアが市場を賑わしていた。

一方で、1979年に「ウォークマン」(ソニー)が発売され大ヒット。音楽を聴くという行為は、インドアからアウトドアに広がり、自分の好きな場所で気軽に音楽を楽しむという新しいライフスタイルが定着していく。

さらに、1981年には画像、音声ともに優れた再生機能を持つレーザーディスクプレイヤー「LD-1000」(パイオニア)、82年にはデジタルオーディオ普及の先駆けともなる家庭用CDプレイヤー「CDP-101」(ソニー)が発売される。また同時期にはのちにテレビ放送を大きく変えることになる高精細テレビ「ハイビジョン」の開発をNHK放送技術研究所が進めていた。

こうした映像と音楽をめぐる劇的な環境の変化に際して、日比野は一つの決断をする。

「これからは映像の時代になる。その先も見据えたうえで、経営方針を大きく転換しよう」

日比野は、次代の経営コンセプトを「AVCC(オーディオ・ビジュアル・コンピューター&コミュニケーション)」と設定した。これまでの音響分野に加えて、新たに映像分野に進出し、さらにその先のコンピューターと情報通信(IT)の時代をも見据えて、事業領域を拡大していく覚悟を示した。

その第一歩が、映像分野への進出だった。1984年4月、従来の販売事業部を「AVC販売事業部」と改称し、業務用映像機器を取扱い品目に加えて新たな販路を開拓する取り組みが始まった。

第2節 映像部設立──映像サービス事業スタート

映像部アルバイト時代の日比野晃久
映像部アルバイト時代の日比野晃久
映像部アルバイト時代の日比野晃久

1984(昭和59)年5月、「映像部」を設立して、映像サービス事業を本格的に始動させた。映像部のスタートに当たって、社長の日比野は「できるものはなんでもやってみよう」と、当時ニーズがあったプロモーションビデオ(PV)やカラオケビデオなどの映像制作に乗り出すことにした。創業以来一貫してハードの分野で成長してきたヒビノ電気音響にとって、ソフトの領域はいわば初の試みであり、その意味でも大きな決断といえた。

その立ち上がったばかりの映像部に一人の大学生がアルバイトとして入ってきた。創業者の長男で、現社長の日比野晃久であった。

晃久は1962(昭和37)年7月生まれ。浅草橋という気取りのない下町で幼少時代を過ごし、自宅にあった音響機材をおもちゃ代わりにして遊ぶなど、早くから父親譲りの機械好きであった。小学校時代には蒸気機関車(SL)の音を録音するためにデンスケ(ショルダー式テープレコーダー)を背負って地方に出掛けたり、ラジオやオーディオアンプなどを自作するかたわら、事務所に積まれていたジュークボックス用のレコードで、洋楽、邦楽問わず音楽にも親しんだ。PA事業部が立ち上がった頃には、毎週日曜日、豊島園の特設ステージで行われていた歌謡コンサートに、父の助手として毎回通った。

PAシステムに向かう日比野宏明(左)の隣でフェーダーを握る少年時代の日比野晃久(中央)。富士山麓で開催された西城秀樹の野外コンサートにて(1975年)
PAシステムに向かう日比野宏明(左)の隣でフェーダーを握る少年時代の日比野晃久(中央)。富士山麓で開催された西城秀樹の野外コンサートにて(1975年)

中学・高校と放送部に所属し、コンソールの前に座ることが楽しくて仕方がなかった。高校の文化祭では、JBLスピーカーやミキシングコンソールなどプロ用の機材を借りて、コンサートのPAオペレーターを務めた。父の仕事を間近で見ながら育った晃久は、プロの機材やエンジニアに対する憧れを強くする。そしていずれは父の会社で働くことを意識し始めた。

中学校の謝恩会で本格的なPA機器を持ち込み、オペレートする晃久
中学校の謝恩会で本格的なPA機器を持ち込み、オペレートする晃久

大学時代は応用物理を専攻し、併せて当時先端技術であったCG(コンピューター・グラフィックス)の基礎を学んだ。長年、PAオペレーターになることを夢見てきた晃久だったが、ある音楽雑誌の記事をきっかけに「映像」への興味を深めていくことになる。それは海外アーティストが全米ツアーで、大型ビデオプロジェクター「アイドホール」を使った舞台演出を行っているという内容だった。晃久は、映像の持つ大いなる可能性を感じ、心が躍ったという。

大学4年生になり、新規部署の映像部をアルバイトで手伝うようになった晃久は、駆け出しのADとして映像制作の仕事に取り組んだ。朝から晩まで休みなく走り回り、手掛けたカラオケビデオは演歌を中心に30本余りにのぼった。中には制作費を抑えるため自ら出演した作品もあったという。無我夢中で働いた1年が過ぎ、1985年4月、晃久は正式にヒビノ電気音響に入社し映像部に配属された。

そして父であり社長である日比野宏明は、映像部での晃久の働きぶりを見て、すでに確立されたPA事業部ではなく映像部の将来を託してみようと考えたのである。

第3節 大型映像サービス開始──国内初のコンサート映像演出を実現

入社当時の日比野晃久
入社当時の日比野晃久

映像分野について、社長の日比野がイメージしていたのは「音楽と映像の融合」だった。中でも注目していたのが大型映像で、その可能性を考えたとき、ヒビノの強みが生かせるのは「コンサート映像」だと考えていた。

また、晃久も同様の意見を持っていた。「音楽と映像の融合」について、晃久がまずイメージしたのは、1981(昭和56)年にアメリカで開局したケーブルテレビの音楽専門チャンネル「MTV」(エムティービー:ミュージックテレビジョン)で繰り返し放送されていたプロモーションビデオ(PV)だった。アーティストの個性や曲のイメージに合わせてオリジナル制作されたPVは、MTVの定着とともにクリエイティブな作品が数多く発表され、マイケル・ジャクソンの「スリラー」(1983年シングルリリース)を一つのピークとして、その後の音楽ビジネスに必須のアイテムとなった。

MTVの登場によって、すでに音楽と映像の融合は始まっていたともいえ、映像によるさまざまな演出効果は、ライブステージでも生かせるはずだと晃久は考えたのである。

しかしコンサート映像を実現するには、数々の大きな壁があった。

当初、日比野はPA事業部を通してコンサートにおける大型映像導入の提案を行い、その後の運営を任せようとした。しかしPAのスペシャリストとして、コンサート音響のクオリティを追求してきたという自負が強かったPA事業部のスタッフは、ステージに映像を持ち込むことに対して強い違和感を示した。仮に映像を使うにしても、取引先から「余計なものに予算はとれない」と拒まれるに違いないと。

海外では、すでにステージ演出に大型映像を取り入れる事例があったが、その多くは大型ビデオプロジェクター、アイドホールを使ってスクリーンに映像を映し出していた。しかし、アイドホールを使用するには客席に足場を組まねばならないこと、また重量が500kgもあって機材を足場へ上げるのに重機が必要となるなど、日本のコンサートではコスト面でとても見合うものではなかった。

何より、コンサート本番までの限られたセッティング時間を映像にも割くとなれば、アーティストから貴重なリハーサルの時間を奪うことになりかねない。ヒビノのPAの基本は、アーティストの音づくりのためにできる限り短時間でセッティングすることを旨としていた。そのためのスキルとノウハウを磨いてきたPAスタッフからすれば、映像は異物であり、邪魔ものに映った。実際、当時のコンサート関係者の多くが、同様の考えを持っていた。「映像がほしい」といってくれる顧客は、なかなか現れなかった。

それでもなお、新しいことにチャレンジしようと考えるアーティストがいた。人気ロックバンドのARBだった。ARB OFFICEの藤井隆夫社長がステージ上に映像を持ち込むことに興味を示し、予算100万円という条件でゴーサインをくれた。赤字は確実だったが、晃久はまず実績を積むことが大事だと考え、映像素材の準備から機材の調達、ライブ当日の設営・オペレートに至るまで、自前でできることはなんでもやろうと決めた。10曲分の映像素材の企画・構成から撮影、編集も自ら手掛け、曲のイメージに合わせた映像を作り上げていった。

ARB(日比谷野音、1985年)。映像システム仕込中の日比野晃久
ARB(日比谷野音、1985年)。映像システム仕込中の日比野晃久
ARB本番ステージ。初のコンサート映像演出
ARB 本番ステージ。初のコンサート映像演出

1985年4月、ARBの日比谷公園大音楽堂(日比谷野音)ライブで、ヒビノ電気音響映像部による国内初のコンサート映像演出が実現した。

ステージ中央には、リアプロジェクターの15面マルチビジョンを設置した。バンドの演奏に合わせてさまざまな映像が流れるというステージを初めて体験した観客は、みな驚きを隠さなかった。

藤井社長の力添えによって、舞台監督はじめ全スタッフが、この画期的な取り組みを前に一致団結したからこそ、成し遂げることができた大きな夢の実現だった。

この国内初の「音楽と映像の融合」は話題を呼び、シンガーソングライター、矢野顕子の全国ツアー「BROOCH(ブロウチ)」での映像演出が企画されると、映像部に依頼が舞い込んだ。演出担当は、ミュージシャンでありステージデザイナーでもある立花ハジメだった。ステージの両サイドにCRT(ブラウン管)モニター各8台をタワー状に積み上げて、マルチビジョンを構築。ほかの美術道具は一切置かず、スイッチングによってそれぞれの画面に異なる画像を映し出す演出は、観客に強いインパクトを与えた。このBROOCH(ブロウチ)ツアーは、全国ツアーでマルチ映像演出を使用した日本初の例となった。

コンサートに絡む案件の受注は、初年度は4件程度に終わった。依然多くのアーティストは音が主役と考えており、ステージに映像を持ち込むことへの理解は容易には得られなかったが、ARBや矢野顕子のツアーでの成果に晃久は大きな手ごたえを感じていた。

晃久はあらためて「コンサート映像」に目標を定めた。そして、映像部の方針書に「レンタル屋にはならない」と明確に記した。ヒビノのコンサート音響事業が、レンタルからオペレート、そしてエンジニアリングの分野に乗り出していったように、映像サービス事業にもあえて高いハードルを課す決意を込めていた。見る人に喜びと感動をもたらす映像表現を追求し、オペレートも含めた付加価値で勝負していこうと考えたのである。

一方、映像部設立時に開始した映像ソフト制作業務は、テレビ局出身のスタッフが次々と入社してくると、テレビ番組の制作にも乗り出した。さらに1988年には、カメラ中継やハイビジョン収録などの技術サービスを提供する部門を新たに設置するなど、ハード・ソフトの両面から強化を図った。

ハイビジョン収録車
ハイビジョン収録車

ヒビノが目指すべき映像サービス事業の確立に向けて、暗中模索の歩みが始まった。そして、1980年代後半から全盛となる展示会や博覧会映像への進出が、大きな成果を残していくことになる。

第4節 大型ビジョン時代の到来とイベント映像への挑戦

1985(昭和60)年3月から9月にかけて、茨城県筑波郡(現 つくば市)に新たに設けられた筑波研究学園都市において「国際科学技術博覧会」(略称:科学万博−つくば ’85)が開催された。文字どおり「科学技術」を一大テーマとした博覧会であった。

会場の巨大なシンボルとなったのは、ソニー株式会社が開発した大型映像表示装置「ジャンボトロン」であった。屋外に設置された横40m、縦25m、2,000インチもの巨大なカラービジョンは来場者の大きな注目を集めた。表示素子には「トリニライト」と呼ばれる蛍光表示管が採用され、家庭用のブラウン管の約30倍の明るさを実現し、日中の野外でも鮮明な画像が表示された。

大型映像表示装置(大型ビジョン)は、松下通信工業株式会社(現 パナソニック モバイルコミュニケーションズ株式会社)の「アストロビジョン」、三菱電機株式会社の「オーロラビジョン」など、大手家電メーカー各社が技術の粋を集めて開発を競った。つくば科学万博は、各社の大型ビジョンの見本市のような様相を呈し、市場拡大の契機となった。

ヒビノの映像サービス事業は、1985年の大型ビジョン元年を期に、新たな発展の方向性を「イベント映像」に求めた。映像部の担当者は日比野晃久と、晃久の高校・大学の後輩である佐々木晃(現 ヒビノビジュアル Div.営業部部長)ら計4名、白金の本社には専用のデスクもなく、AVC販売事業部の一部を間借りして作業を行うという、徒手空拳からのスタートだった。

晃久は、株式会社電通映画社(現 株式会社電通テック)をはじめとするイベント企画会社に精力的な営業をかけた。当時、マルチビジョン拡大器は16面(4×4)用のものが一般的だったが、25面(5×5)用のものを導入してより大型の映像表示に対応するなど、同業他社との差別化を図りながら、マルチビジョンをベースとする映像機材のレンタルと運用業務の獲得に奔走した。

第26回東京モーターショー1985 日産ブース。初のモーターショー受注
第26回東京モーターショー1985 日産ブース。初のモーターショー受注

大型映像の活用という点において代表的なイベントの筆頭が、「東京モーターショー」であった。映像部はAVC販売事業部の顧客であった三友株式会社を通じて、第26回東京モーターショー1985の日産ブースの映像表示を受注した。しかし当時の映像部には機材もノウハウも足りなかった。必要な機材をかき集め、現場は試行錯誤の中で、なんとか会期を乗り切った。

東京モーターショーという表舞台で貴重な実績と運用経験を得たことで、事業の成長に弾みがついた。その後、経験と意欲のある若い映像専門スタッフが続々と入社し、獲得案件は徐々に増えていった。

「光が丘IMA」オープニングイベント(1987年)
「光が丘IMA」オープニングイベント(1987年)

1987年4月の「光が丘IMA」オープニングイベントでは、26インチから37インチまで5種類のCRTモニターを計126台使用するという大胆かつアーティスティックな映像演出にも対応した。周辺機器を含めた機材への惜しみない投資と、若いスタッフの貪欲なまでのノウハウの吸収力は、“どんな案件でも実現してしまう会社”として、評判を高めていった。

第27回東京モーターショー1987 日産ブースのマルチビジョン
第27回東京モーターショー1987 日産ブースのマルチビジョン
第27回東京モーターショー1987 スバルブースのマルチビジョン(左)とサークルマルチビジョン(右)
第27回東京モーターショー1987 スバルブースのマルチビジョン(左)とサークルマルチビジョン(右)

第27回東京モーターショー1987では、日産に加えてスバルブースの受注にも成功した。既製の機材では満足できず、“ヒビノ仕様”の機材を作るという伝統は、映像部にも受け継がれ、33インチのCRTモニター10台を円筒状に構成する「サークルマルチビジョン」、映像演出に用いるマトリクススイッチャー、マルチビジョンの映像再生を制御するソフトウェア「HBコンパイラ」などを独自に開発・運用することによって、その映像クオリティと高い技術力が注目を浴びることとなった。特に映像部が開発に関与したHBコンパイラは、ファクトリーオートメーションのソフトを応用したもので、1フレーム(1/30秒)ごとの映像制御を可能にすることで、マルチビジョンの映像再生をズレなくスムーズに行うという画期的なものだった。

モーターショーのほかにも、「ビジネスシヨウ」「エレクトロニクスショー」及び「データショウ(現 CEATEC JAPAN)」といった国際展示会や企業イベントの案件を数多く手掛けていく中で、日比野晃久以下映像部のスタッフたちは、ハイレベルな映像が要求されるシビアな現場で、時に寝食を忘れて機材の調整やカスタマイズに取り組みながら、実績を積み重ねていった。

第5節 コンサート音響事業における国内アーティスト案件の拡大

PA事業部は、海外の一流アーティストはもとより、国内アーティストの案件を次々と獲得し実績を積み重ねていった。1984(昭和59)年に大江千里、尾崎豊、浜田省吾、チェッカーズなどの音響を初めて担当すると、その後も安全地帯、TM NETWORK、渡辺美里、レベッカ、BUCK-TICK、徳永英明、X(現 X JAPAN)、B’z、LUNA SEAなど、ロックやポップスなど幅広いジャンルのメジャーアーティストの案件を開拓し、ホールからアリーナ、野外イベントまでをカバーする機材力とオペレート技術による全面サポート体制を確立していった。

オペレーターをはじめとする専任のスタッフを帯同するケースが多い海外アーティストに対して、国内アーティストの場合は、現場でオペレート実績を重ねていくことによって信頼関係を獲得し、特定のアーティストに指名されるヒビノのPAオペレーターが増えていった。音づくりに対するこだわりや方向性の一致によって生まれた「人と人との結びつき」が、アーティストとの強い絆となり、またその評判が評判を呼んで、新たな案件を呼び込むという好循環が、コンサート音響事業の拡大を支えた。

第一線のオペレーターとして活躍しながら、部長として全チームのマネジメントにも当たっていた橋本良一は、年々拡大する案件をいかに効率的に回していくかというテーマに取り組んだ。同時期(同時間帯)に行われる複数のコンサートに対して、人員をどう配置するか、限りある機材をいかに効率よく運用していくか。この“PAマネジメント”ともいうべき領域は、業界のトップランナーとなった「ヒビノサウンド」が、自社のサービスクオリティを維持するためにも、率先して取り組んでいかなければならないことだった。

橋本はこれまでの経験をフルに生かして、機材をパッケージ化していく作業を進めた。各案件に対して、機材をそのつどピックアップするのではなく、パッケージで運用していくほうが明らかに効率的であった。まず、フライトケースを搬送用トラックの荷台の横幅サイズにぴったり収まるように作り直し、さらに荷台への最適な積み方をマニュアル化することで、機材の積み込み作業をスムーズに行えるようにした。また、ラックに満載された機材の細かな配線作業は現場で行わず、あらかじめ会社で済ませることとした。コンポーネントとしてラックにプリセットした機材を搬入すれば、現場でのセッティング時間も大幅に短縮され、トラブルも防げるというメリットがあった。機材のチーム数は、1984年の段階で15となり、そのすべてを運用可能とするスタッフ数を確保するまでの規模になった。大会場や全国ツアーの増加とともに、多くの案件を手掛けていくために編み出されたパッケージ運用の手法は、アップデートを繰り返しながら現在もチーム数を増やし続けている。

「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」(国立競技場、1985年)
「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」(国立競技場、1985年)

1985年6月15日、国立競技場に6万人以上の聴衆を集めた超大型ミュージックイベント「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」は、そのスケールゆえ、大手音響各社による共同運営となったが、ヒビノ電気音響はこれまでの実績を買われて、幹事社を務める栄誉を勝ち取った。

同年に国連で採択された国際青年年を記念して開催されたこのイベントは、吉田拓郎、オフコース、アルフィー(現 THE ALFEE)、チェッカーズ、さだまさし、松任谷由実など、文字どおり国内の人気アーティストが一堂に会するということで、ステージ演出や音響機材の規模も規格外だった。

競技場のフィールド内に放射状に設けられた8つの円形ステージは、フィールドの中心に向かって敷かれたレール上を動く構造になっており、アーティストの音響機材をセッティングしたそれぞれのステージが、出番ごとにセンターに移動するという仕掛けになっていた。

過去最大級の音響機材を投入した同イベントの幹事社として、当時の現場を担当したスタッフは、夢のような顔合わせと壮観なステージングに感激しつつも、PAという仕事のすばらしさをあらためて実感したという。

TFA Turbo 計96本を使用したホールコンサート(1986年)
TFA Turbo 計96本を使用したホールコンサート(1986年)

1986年11月のLOUDNESS大阪城ホール公演では、TFA Turboを片側48本、計96本使用するという超大型音響システムを構築。その凄まじいまでの爆音は、ジャパニーズメタルの雄であるLOUDNESSの魅力を限界まで引き出した。

翌1987年の1月から2月には、HOUND DOG(10days+1day、1月26日〜2月6日、10日)、The Street Sliders(1月30日)、KUWATA BAND(2月7日〜9日)と続いた日本武道館でのコンサートの音響を15公演連続で手掛けるという業界初の快挙を成し遂げた。

第6節 AMEK/TACブランドの獲得

MIT STUDIOに納入したAMEK「APC1000」
MIT STUDIOに納入したAMEK「APC1000」

AVC販売事業部は、Soundcraftに代わる新たなミキシングコンソールの主力商品として、1985(昭和60)年10月にイギリスAMEK Systems and Controls LTD.及びイギリスTotal Audio Concept LTD.とそれぞれ輸入総代理店契約を結び、「AMEK」「TAC」ブランドを獲得した。

AMEKは放送用及びレコーディング用ミキシングコンソールの高級ブランドとして知られた存在だったが、PA向けの別ブランドとしてTACを展開していた。

Soundcraftのミキシングコンソールはアルミ製で軽量を売りにしていたが、TACはスチール製で重量がある分、堅牢な作りが特長だった。接触不良が少なくノイズに強かったため、PA事業部でも「SR9000」「Scorpion」などが採用されて、その性能が実証されることとなった。

TBSに納入したTAC「SR9000」
TBSに納入したTAC「SR9000」

国内におけるブランドは「AMEK/TAC」として展開し、1990年代に入ると、PA用コンソールの「RECALL by Langley」やレコーディングコンソールの「big by Langley」、放送用コンソール「BCシリーズ」などが看板商品となった。2000年代には“ミキシングコンソールの神様”ルパート・ニーヴ氏が設計した超高級放送用コンソール「9098」がNHKに2台、TBSに4台納入されるなど、主力ブランドとして音響機器販売事業の業績向上に貢献した。

第7節 大阪出張所が大阪営業所に昇格──関西拠点の拡大

大阪営業所(大阪府吹田市豊津町)
大阪営業所(大阪府吹田市豊津町)

国内における事業拡大の拠点として、関西圏でのコンサート音響事業を成長軌道に乗せた大阪出張所は、1987(昭和62)年2月、大阪営業所に格上げとなった。同時に、開設当初の新大阪のマンションオフィスから吹田市豊津町に移転して、新たに音響機器販売事業を開始することとなった。

大阪、神戸などの市街地を中心に、劇場やホテル、多目的ホールの建設が進み、AVC販売事業部にとっても、関西地区は見逃せないターゲットエリアになっていた。大阪出張所開設以来、地場に根ざした営業を重視してきたこともあり、日本通信小野特機株式会社(現 ジャトー株式会社(別ウィンドウで開きます)(※外部サイトへ移動します))の仕入れ担当だった朝田勇を初代AVC販売事業部大阪営業所長に迎え入れることで、大阪における音響機器販売事業はスタートを切った。朝田の在籍した日本通信小野特機は、大阪に本社を置く業務用音響・映像機器のシステム設計・施工を手掛ける関西有数の会社で、大阪万博のパビリオンや大阪城ホールをはじめ、ホテルや劇場などの音響システムの施工実績も豊富だった。朝田は所長として精力的に商圏拡大に動き、1988年9月には新神戸オリエンタルホテル(当時)に併設された劇場などに音響機材を多数納入するなど、大型案件を獲得している。

1987年4月には、映像部も設置し、大阪営業所はコンサート音響、音響機器販売、映像サービスの3事業に拡大。同7月から8月にかけて開催されたフジサンケイグループ、フジテレビ、関西テレビ主催のビッグイベント「コミュニケーションカーニバル 夢工場 ’87」(大阪会場)の映像サポートを担当し、順調な滑り出しをみせた。1990年4月から9月にかけて開催された「国際花と緑の博覧会」(略称:花博)では、PA事業部がオープニングイベント及び連日開催されたライブステージの音響を担当する一方で、映像部は「JT館」パビリオンの映像表示を担当し、30数台のライド型アトラクションの1台1台に3管式プロジェクターを設置・運用した。3管式プロジェクターは、地球の磁場の影響によりライドの方向が変わるたびにデリケートな調整を要したが、高度な技術をもってパビリオンの運営を成功に導いた。

バブル景気や全国的イベントブームに後押しされて、大阪営業所は急成長を遂げていく。

第8節 ドーム時代の到来──ミック・ジャガー 東京ドームこけら落し公演

東京ドームこけら落とし公演(1988年)。オリジナルスピーカーシステムBINCO
東京ドームこけら落し公演(1988年)。オリジナルスピーカーシステムBINCO

1988(昭和63)年3月17日、東京都文京区に、日本初の大型ドーム式野球場「東京ドーム」が開場した。愛称は「ビッグエッグ」。収容人員は約4万6,000人、イベント使用時は約5万5,000人という巨大な全天候型多目的スタジアムの誕生だった。

当初から野球の開催だけでなく多目的使用がうたわれており、同月22日と23日には、こけら落しイベントの一つだったミック・ジャガー公演の音響サポートを、ヒビノが担当することとなった。全国のロックファン待望の初来日コンサートが、国内初の巨大なドームで行われるという初物づくしのビッグイベントに、世の中の注目が集まった。

東京ドームは、アメリカ・ミネソタ州のメトロドーム(当時)を参考に設計され、ドーム内部の空気圧を外よりも高くすることで屋根膜を膨らませるという特殊な構造だった。多目的仕様とはいえ、東京ドームもコンサート会場としては当然ながら未知数である。宮本らヒビノのPAスタッフは、オープン前の内覧会などを通じて機材の設置場所などを慎重に検討していった。

ところがコンサート前日のリハーサル中、スピーカーからノイズが発生し、スタッフ間に緊張が走った。なかなか原因が特定できず、ついに当日の朝を迎えることになる。「もしかしたら機材のトラブルではなく、会場特有の構造に原因があるのではないか」と考えた宮本は、ドームの職員に事情を説明して設備のチェックを開始した。そこで目にとまったのがドームの地下に備えられた非常用蓄電池の充電装置だった。同装置は蓄電池が一定量放電すると自動的に充電を始める仕組みになっていた。検証の結果、充電が始まるとノイズが発生することが判明したことから、コンサート中は充電装置を手動で止めてもらうことで、解決をみたのである。

無事ミック・ジャガー公演を成功に導くと、THE ALFEE、HOUND DOGと続いたオープニング公演も担当して、ヒビノは他社に先駆けてドームコンサートの実績を積むこととなった。

ちなみに、1989年4月に開場した横浜アリーナは、宮本が音響設備設計に参画し、その幅広い経験が設計段階から生かされるとともに、こけら落しのスティーヴ・ウィンウッド公演の音響サポートも行った。

東京ドームオープン以降、多目的巨大ドームが全国主要都市で次々と建設されていく。1993年4月には福岡ドーム(現 福岡 ヤフオク!ドーム)、97年3月には大阪ドーム(現 京セラドーム大阪)とナゴヤドーム、2001年6月には札幌ドームが開場して、大規模なドームコンサートの件数は増加していく。さらに何十万人もの観客を全国の主要都市に動員する「5大ドームツアー」は、一流アーティストのステータスの証となる。

PA業界にとって、ドームの開場はビジネスの拡大を意味し、ヒビノはドームコンサート(ツアー)に必要とされる豊富な機材とノウハウの蓄積が急務となった。

第9節 「NEW BINCO」スピーカーシステム運用開始

PA事業部の独自開発によるBINCOシステム以降も、ヒビノのPAスタッフは既製のスピーカーに改造を施したり、周辺機器を変えたりすることで、同業者からも「同じ機材でも、ヒビノの音は違う」といわれるような機材の運用・活用方法を蓄え続けた。

その開発力、現場力が発揮されたものの一つとして挙げられるのが、「ワイヤレスミニマイク」である。ステージに“林立”するマイクスタンドをなくし、ステージ演出の幅を広げるというコンセプトから、特に開発が難しいとされたボーカル用のミニマイクの開発を提案し、松下通信工業と共同開発を行った。そして1986(昭和61)年1月、RAMSA「ミニチュアマイクロホンシリーズ」が発売された。現場の意見をヒントとして生まれたこの製品は、音響のみならずステージ演出にも大きな変化をもたらす革新的なものであった。

横浜アリーナ公演(1989年)で運用したTMS-3
横浜アリーナ公演で運用したTMS-3(1989年)

1987年5月、PA事業部はTurbosound社のスピーカーシステム「TMS-3」の導入に踏み切った。ヒビノオリジナルの音を追求していくというプライドは揺るがないものの、案件の増加とともに顧客が求める機材に応えていく必要性も出てきた。世界的にも評価が高かったTMS-3は、待望のスピーカーシステムの一つだった。

また、PA事業部が数多く手掛けるアリーナクラスの大会場のコンサートでは、フライングのニーズがいっそう高まっていた。フライングシステムは、キャビネットを積み上げるグランドスタックと比較すると、会場の隅々まで音を行き渡らせることができるというメリットのみならず、吊りが可能な会場であれば設営時間を大きく短縮でき、地震発生時に倒れる心配がないなど安全面でも有利ということで、大会場ではもはや不可欠になってきていた。

「とにかく吊れるスピーカーがほしい」というのが現場の切なる声だった。BINCOシステムはフライングを前提に設計したものではなく、当時は安全を確保しつつ連結して吊るという技術も確立していなかった。そこで、海外で実績を積んだシステムを導入することで、そのノウハウを積極的に吸収しようとした。

PA事業部では、技術職として入社していた吉川博志や井上比呂志を中心に、TFA Turboの運用経験や最新のTMS-3の構造分析をもとに、フライングに適した新しいBINCOシステムを研究していった。

安全で、かつ現場のセッティングが容易な機構として、キャビネットの左右後方の3点に、独自のインナーハンガー(アルミと鉄で作ったプレート)を埋め込んで、常にその3点をシャックルで固定して上下のスピーカーをつなぐという方式をとった。

試作した吊り金具は破断荷重テストを繰り返し、フェールセーフの基準が十分確保できたところで、BINCOは「NEW BINCO(NB)」として、フライングに完全対応する新しいシステムに生まれ変わった。

NB用フライング機構の開発。安全強度の確認実験(1987年)
NB用フライング機構の開発。安全強度の確認実験(1987年)

NBシステムは、1988年3月からスタートした浜田省吾「ON THE ROAD ’88 〜FATHER’S SON〜」ツアーでデビュー。同年5月の代々木第一体育館公演では、ステージに門型のトラスを組み、NBをセンタークラスターで吊るという意欲的な試みを行った。すべての客席に均一な音を届けるために、あえてモノラルにして、スピーカーも中央に集約させてみようというものだった。その目論見は成功したが、その後はコンサート会場自体の構造が改良されていくことで柔軟なフライングが可能になり、センタークラスターという試みはこの1回のみとなった。しかし、こうした実験的なトライアルは、アーティストとの信頼関係を基盤としたヒビノサウンドの飽くなきチャレンジ精神を内外に示したといえよう。

この頃から、PA事業部内に「システムエンジニア」という職能が確立していく。システムエンジニアは、大会場におけるスピーカーの配置計画(音響システムプランニング)やチューニングを行う役割である。

大型案件の増加と運用ノウハウの蓄積によって専門化を遂げたシステムエンジニアだが、その専任者を擁する同業他社は少なく、現在もヒビノサウンド Div.の大きな強みの一つとなっている。

第10節 新社屋完成・CI導入──「ヒビノ株式会社」と商号を変更

完成した新社屋
完成した新社屋

1988(昭和63)年3月、東京都港区港南三丁目5番14号に新社屋が完成。AVC販売事業部と管理部門が白金事業所より、映像部の一部が隣の日成倉庫より引っ越し、翌月にはPA事業部も仮社屋としていた勝島より移転した。

当時の品川駅港南口付近はオフィスビルやマンションも少なく、倉庫が建ち並ぶエリアだったため、少々大きな音を出しても問題はなかった。PA事業部のスタッフが心おきなく音響機材のテストが行える立地であった。

新社屋完成とともに、社長の日比野が打ち出したのが、社名の変更だった。

AVCC時代をリードするという経営方針の転換により、本格的に映像分野に乗り出したことで、ヒビノの企業風土は次第に変化をみせていた。社員数も増え、会社の一体感を高める意味でも、またさらなる新領域にチャレンジするという将来的展望においても、「電気音響」という専門性の高い社名と実体とのギャップを解消する必要があった。いわゆるCI(コーポレート・アイデンティティ)の導入である。

CI計画は前年の1987年3月から、社内に委員会を設置して検討が重ねられた。その結果、自社のアイデンティティを「音と映像によるプレゼンテーション技術を提供するプロ集団」と規定し、これに基づく企業ブランドを確立していくという基本方針を策定した。

新社名は「ヒビノ株式会社」と決定した。

新社名決定へのプロセスでは、「電気音響」だけでなく、オーナー色の強い「ヒビノ」の名も外して、まったく新しい社名にすることも検討された。それは創業者である日比野も了解していたが、社員アンケートの結果、「“ヒビノ”は残すべき」という声が大多数を占めた。コンサート会場に行けば、スピーカーや音響機材のいたるところに「HIBINO」のロゴを目にすることができ、それは社員にとっての誇りであった。コンサート業界において、ヒビノはすでに一つのブランドとして浸透している、というのがその理由だった。コーポレート・スローガンについては、社内外から計176点の応募があり、同委員会での検討により、「音と映像のプレゼンテーター」となった。

新社名とロゴ及びコーポレート・スローガン
新社名とロゴ及びコーポレート・スローガン

新しいデザインのロゴタイプは、グローバルに通用するものにしたいとの意図からアメリカ在住のグラフィックデザイナー、Takashi Daniel Narimatsu氏に依頼し、先進的でスマートな仕上がりとなった。「人々に感動を提供するインパクトのある仕事をしたい」という願いから、「HIBINO」の文字をかたどった新ロゴタイプの最初の「I」は感嘆符「!」にした。そして「ハイテックでプロフェッショナル」「高い信頼性」「国際センスと文化性」を兼ね備えたエクセレントカンパニーを形成していくという決意を込めた。

こうして迎えた1988年6月15日、商号をヒビノ電気音響株式会社からヒビノ株式会社に変更し、本社を東京都港区港南三丁目5番14号に移転した。

7月7〜9日には、「新社名ならびに新社屋披露」(CIイベント)が新本社で盛大に開催され、3日間で得意先・取引先などの関係者602名が来場した。

メイン会場では「音と映像の明日を求めて」と題したヒビノの会社紹介VTRをハイビジョンで放映した。また、CAMERON社の16面ビデオウォールや取扱い輸入商品の展示、さらに、マイクロ波無線通信システム(パソリンク)を用いて3kmほど離れた港区の高輪ビルから中継するというテレビ会議システムのデモンストレーションを行った。

新社屋で行われたCIイベントの様子
新社屋で行われたCIイベントの様子

第11節 ウェストレイクスタジオ開設──ポストプロダクション業務開始

ウェストレイクスタジオ A studio(映像本編集室)
ウェストレイクスタジオ A studio(映像本編集室)

1980年代、家庭用ビデオの普及によるパッケージ(ソフト)という新たなメディアが台頭し、アーティストのステージを収録したライブ音源や映像、またビデオクリップなどは、今後の成長が期待される分野であった。

映像ソフト制作部門を擁するヒビノの次なるビジネスとして浮上したのが、「ポストプロダクション」である。

1988(昭和63)年7月6日、東京都港区白金の旧本社内に「ウェストレイクスタジオ」をオープンした。同時に専門組織を新設して、オンライン(映像本編集)、オフライン(映像仮編集)、MA(音声編集)の各種編集を請け負う業務をスタートした。

ウェストレイクスタジオ D studio(MA室)
ウェストレイクスタジオ D studio(MA室)

映像制作におけるトータルなサービス、いわば入口から出口までを提供可能にする編集業務を手掛けることで、映像サービス事業のハード・ソフトの総合受注を促進する狙いがあった。また、映像部門立ち上げ以来のテーマでもある「音楽と映像の融合」を具体化していくうえでも、同スタジオは新しいヒビノを象徴する拠点となった。

取扱い領域は、テレビ番組、テレビCM、音楽ビデオなどのパッケージ、企業のプロモーションビデオの4分野がメインで、中でもコンサートの収録パッケージの需要が高かった。そのため、クライアントはレコード会社や制作プロダクションが中心となった。

ウェストレイクスタジオはオープン当初、映像編集用のメインルームであるAスタジオとBスタジオ、オフライン編集用のコンパクトなCスタジオ、そしてMA用のDスタジオの4室で構成された。なおDスタジオには、AVC販売事業部の取扱い商品であるAMEKミキシングコンソール、Westlakeモニタースピーカーが納入された。

ポストプロダクション業務を開始するに当たっては、外部から腕利きのスタッフを多数招聘し、また超一流のスタジオ機材を選りすぐったこともあり、一躍、ウェストレイクスタジオは業界にその名をとどろかす存在となった。

翌1989年6月にはデジタル編集用のEスタジオをオープン。最先端のデジタル処理を可能にするKadenza(スイッチャー)とHarry(エフェクター)を導入し、テレビCM制作を中心に業務の依頼はさらに増えていった。

ウェストレイクスタジオ E studio(デジタル編集室)
ウェストレイクスタジオ E studio(デジタル編集室)
ウェストレイクスタジオ H studio(Henryを導入したデジタル編集室)
ウェストレイクスタジオ H studio(Henryを導入したデジタル編集室)

一方、莫大な投資を回収するのは容易ではなかった。

1996年9月、東京都港区港南の本社内にデジタル対応のビデオ編集スタジオを3室増設する。編集用のFスタジオ、MA用のGスタジオには当時最新のSSLデジタル・ミキシングコンソールを導入、デジタル編集用のHスタジオにはEスタジオに導入されていたHarryの後継機種であるHenryを導入した。

1990年代の映像編集技術は日進月歩の勢いで、ノンリニアデジタル映像編集の流れは急速に進んでいった。1998年10月にはノンリニア編集に対応するJスタジオを白金に増設、またDVDのオーサリングルームを港南に新設するなど積極的な投資を続けたが、2003年地上デジタル放送の開始に伴い機材のフルデジタル化が求められることとなり、試算を繰り返した結果、新たな投資は困難という判断のもと、2004年1月にウェストレイクスタジオは閉鎖となった。

第12節 浜田省吾5万人コンサート in 浜名湖

1988(昭和63)年8月20日、静岡県の浜名湖に浮かぶ弁天島のリゾート地「渚園」に、5万人の観衆を集めて行われた浜田省吾のコンサート「A PLACE IN THE SUN」。音響を担当したPA事業部は、湖畔の広大な特設会場の隅々まで音を届けなければならないという極めて難しい条件に対し、所有していたTFA Turboのすべてを投入して、片側72本、計144本という大規模なフライングシステムを構築、十分な音量を確保することに成功した。5万人の大観衆は浜田のパワフルな歌声に酔いしれ、同公演は浜田ファンの間では「伝説の渚園」として今も語り継がれている。

渚園では、B’zも1993年7月31日と8月1日に5万人コンサートを開催し、PA事業部が音響を担当した。スピーカーシステムは、のちにPA事業部の目玉となる「Prism」が使用された。

野外コンサートの難しさは、天候、気温、湿度、風向きといった気象条件が機材のセッティングやオペレートにさまざまな影響を及ぼすことにあるが、PA事業部はシステムエンジニアリングに関する高度な知見と豊富な経験によって、あらゆる条件に迅速かつ柔軟に対応する体制を作り上げていく。その後もさらにスケールアップする野外コンサートや「夏フェス」への対応力や運用ノウハウは、この時期に蓄積されたともいえよう。

第13節 「大喪の礼」「即位の礼」の中継業務を担当

映像部が短期間に積み上げていったイベント映像運用の実績は「国民的行事」への参画という形で、さらに大きな一歩を示した。宮内庁関係の式典運営を数多く手掛ける株式会社ムラヤマから、昭和天皇崩御に伴う皇室伝統の葬儀「大喪の礼」の映像サポート業務の依頼が舞い込んだのだ。

1989(平成元)年2月24日、雪混じりの雨の中、新宿御苑で行われた本葬に当たる「大喪儀」は、皇室の葬儀としては初めて中継カメラが入り、当日の模様はテレビ・ラジオで全国に生中継された。ヒビノは来賓用のサービスモニターなどの設置と運用を担当。モニターには、日立製の高性能リアプロジェクションモニター「ネオビジョン」を使用した。ケーブルの敷設など、1ヵ月前から新宿御苑に詰めての念入りな作業は、寒さとの戦いだったという。

そして翌1990年11月12日に皇居内の宮殿・豊明殿で執り行われた「即位の礼・正殿の儀」においては、監視用カメラと記録用カメラ、宮殿内の来賓用モニターなど、主要映像機器の設置と運用を担当することとなった。現場を取り仕切る日比野晃久は、国事行為である正殿の儀を担当するに当たって、「映像部門発足以来の大仕事であり、失敗は許されない」として、同案件を「SKI ’90」(SKI=SOKUIの略)と命名し、全社挙げてのプロジェクトと位置づけた。本件に関わったスタッフは映像関係だけで延べ1,200名、ヒビノ全体では延べ1,500名を超えた。

機材については、監視用カメラには株式会社ヒビノテルパ(工業用監視装置メーカーで、当時ヒビノの関連会社。現 ヒビノデータコム株式会社)製を2台使用、記録用カメラにはソニー製ベータカム「BVP-70IS」「BVP-70」各3台、同スタジオ用カメラ「BVP-370」2台、池上通信機製「HL-79E」7台が使用された。

また70ヵ国に及ぶ各国の元首クラスをはじめとする来賓へのサービス用として宮殿内に設置されたモニターには「ネオビジョン」を9台使用。さらに宮殿外に設置した報道陣向けサービスモニターが約150台、映像・音声ケーブルの総敷設距離は30kmに及ぶという、まさにビッグプロジェクトであった。

同年10月から始まった皇居内での機器設営は、入場時から非常に厳しいチェックのもと、作業時間や設置場所にもさまざまな制約が課せられた。また宮殿内の設備や調度品などを破損したりすることのないよう、細心の配慮をしながらのデリケートな作業を伴った。

しかし、日比野晃久を筆頭に、当時の現場を知る複数の映像スタッフによれば、普段は立ち入ることすらできない皇居内での作業は、新鮮な緊張感とともに大きな充実感につながったという。

1ヵ月以上にわたった「SKI ’90」プロジェクトは、全社の総力を結集し、恙なく終了した。

即位の礼から5日後の11月17日に行われた「天皇陛下御即位奉祝大提灯パレード」では、皇居前広場にて1989年10月に初導入した車載型大型映像表示装置「アストロビジョン」が稼働した。同広場に集まった約5万人の参加者に向けて、二重橋から挨拶される天皇皇后両陛下のお姿を中継した。

第14節 映像部をAVCシステム事業部に改組──システム部門を設置

AVC販売事業部は、1987(昭和62)年11月に音響・映像・コンピューターシステムの設備工事部門を新たに設置し、「AVシステム」案件の受注を本格化させた。

一方、映像部でも、展示会や博覧会、各種イベント映像における実績が積み上がるにつれ、企業のショールームやイベントスペースなどの常設案件も新たなマーケットとして浮上してきた。特にマルチビジョンの運用で高い評価を得てきたヒビノに対して、常設施設にも大型映像を導入したいというクライアントが増え、さらに音響面も含めたAVシステムをトータルで受注するケースも出てきた。

西武園ゆうえんち「アイドル共和国」(1989年):ステージ(上)、オペレートブース(下)
西武園ゆうえんち「アイドル共和国」(1989年):ステージ(上)、オペレートブース(下)
西武園ゆうえんち「アイドル共和国」(1989年):ステージ(上)、オペレートブース(下)

AVC販売事業部が1989年3月に納入した西武園ゆうえんちのAVシステム案件は、同園内のイベントステージ「アイドル共和国」にて、床面に28インチ×64面のマルチビジョンを埋め込むという特殊かつ高度なシステムで、設備工事部門だけが担う案件としては負荷が大きかった。

この案件を一つのきっかけとして、より高度なシステムインテグレーション(SI)に柔軟に対応できる社内体制が求められた。

1989年5月の組織改編では、映像部の業容拡大に伴い、「AVCシステム事業部」に改組。同事業部の事業部長には日比野晃久が就任した。同時に、AVC販売事業部の設備工事部門をAVCシステム事業部に移管し、新たに発足したシステム課において、企業のショールームや展示施設などの常設映像・音響機器のシステム設計・販売・保守を一元的に担うこととした。

また、設備設計や現場工事に対応する専門部署として「エンジニアリング部」を新設。電研社プラント株式会社の遠藤勝三社長を取締役として迎え、特に現場の安全管理や法的な手続きなど、これまで不足していたシステム工事のノウハウを獲得した。

システム設計から施工、保守までを一手に行う総合受注体制が整ったAVCシステム事業部システム課は、1990年7月に日本電信電話株式会社のNTT霞が関コミュニケーションセンター、同8月にNTTデータ通信株式会社のプレゼンテーションルーム(いずれも霞が関ビル30階)のAVシステム案件を受注。また、同年9月25日にオープンしたトヨタのショールーム「トヨタオートサロン アムラックス東京」にて、33インチ×16面のメディアウォール(マルチビジョン)をはじめ、5階「アムラックスホール」のAVシステム、1階「ドームファクトリー」の3D及びマジックビジョンを用いたマルチ映像システム、さらにショールーム全体のシステムを制御するメディアステーションに至る先進的な常設案件に携わった。

5階「アムラックスホール」には、TACミキシングコンソール「SR9000」「Bullet」をはじめ、Turbosoundスピーカー、Westlakeモニタースピーカー、AMCRONパワーアンプ、Klark-Teknikグラフィックイコライザー、BARCOプロジェクターなどを納入。

またアムラックス東京の常設物の中でもひときわ目立った16面のメディアウォールは、マルチ画面全体がエレベーターのように上下にゆっくりと動くというユニークかつ大掛かりな機構で、ヒビノは特注のマルチビジョンを納めた。

「トヨタオートサロン アムラックス東京」(1990年):1階から5階までの吹き抜けを昇降するメディアウォール(上)、ビル全体の音響・映像をコントロールするメディアステーション。AMEK「BCⅡ」(下)
「トヨタオートサロン アムラックス東京」(1990年):1階から5階までの吹き抜けを昇降するメディアウォール(上)、ビル全体の音響・映像をコントロールするメディアステーション。AMEK「BCⅡ」(下)
「トヨタオートサロン アムラックス東京」(1990年):1階から5階までの吹き抜けを昇降するメディアウォール(上)、ビル全体の音響・映像をコントロールするメディアステーション。AMEK「BCⅡ」(下)

こうしたさまざまな案件を通して、高度なシステムインテグレーションに対応可能な総合力が構築されていくこととなる。

第15節 マルチプロジェクションシステムの登場と「ヒビノキューブ」運用開始

大型映像で最初に手掛けたマルチビジョンは、CRT(ブラウン管)モニターが使用されていたが、その後普及したのは、1988(昭和63)年にパイオニア株式会社が開発した「プロジェクションキューブ」(RM-V111)であった。キューブは、3管式リアプロジェクターを箱型の筐体に搭載することでレイアウトフリーを実現し、さらにマルチに組んだ場合の継ぎ目が小さいというメリットがあった。また表示サイズも28インチを基本とするCRTモニターと比べ40インチと大きく、まさに室内の映像表示に適した設計となっていた。

AVCシステム事業部はキューブの導入と運用を進めたが、よりきれいな画質を実現できないかという声が上がり、オリジナル機材開発の気運が部内に高まっていった。画質面では、日立製のリアプロジェクションモニター「ネオビジョン」の評価が高かったため、同ユニットをベースとして検討が始まった。

そして1989年8月、AVCシステム事業部は、ネオビジョンのユニットをスチール製の堅牢な筐体に搭載したオリジナルのマルチプロジェクションシステム「ヒビノキューブ」の開発に成功。ヒビノキューブは画質の向上はもちろんのこと、パイオニア製キューブの40インチから44インチにサイズアップしたことで、同業他社との差別化につながった。初の運用は、同月に開催された「別府国際ジャズフェスティバル・城島ジャズイン」野外会場における、36面マルチのサイドモニターだった。

ただし、ヒビノキューブは画質調整が難しい(時間がかかる)という側面があったため、イベントよりむしろ常設表示に向いていた。そこで、AVCシステム事業部のシステム部門はボウリング場のレーンモニター用としてヒビノキューブを売り込むと、累計800台弱を売り上げるという実績を上げた。

寒川セントラルボウルに納入したヒビノキューブ(1991年)
寒川セントラルボウルに納入したヒビノキューブ(1991年)

晴海から幕張メッセに会場を移した第28回東京モーターショー1989は、本格的にプロジェクションキューブが使用された年となった。ヒビノは日産、スバルに加えて、トヨタ、ヤマハなど計6社のブースを担当し、ヒビノキューブをはじめとするプロジェクションキューブとCRTマルチビジョンを併用した映像演出を展開した。特にスバルブースでは、45度に傾けたハーフミラーを使用して、実物と映像を合成して見せる展示映像の手法「マジックビジョン」(株式会社電通プロックス〈現 株式会社電通テック〉の登録商標)が来場者の目を引いた。倉庫を借り切っての1ヵ月にわたる調整作業は、スタッフの充実感となって記憶に刻まれた。

第28回東京モーターショー1989 スバルブース。ヒビノキューブ及びマジックビジョン
第28回東京モーターショー1989 スバルブース。ヒビノキューブ及びマジックビジョン
第28回東京モーターショー1989 スバルブース
第28回東京モーターショー1989 スバルブース
第28回東京モーターショー1989 日産ブース
第28回東京モーターショー1989 日産ブース

マルチプロジェクションシステムの画質を大きく左右する映像拡大装置は、他社との差別化におけるポイントであった。AVCシステム事業部はトヨタブースで要求された「バラの花びらの質感を再現する」というミッションに応えるべく、1990年に三洋電機株式会社(現 パナソニック株式会社)と共同で高性能拡大器「MP-100」を開発した。MP-100は、1990年の「第70回ビジネスシヨウ」ゼロックスブースで初めて運用されると、その画質はクライアントから高い評価を得て、ヒビノはプロジェクションキューブの運用において、業界でも抜きん出た存在として認知されることとなった。

1991年には、世界初のハイビジョン拡大器「HD-100」を開発。1994年10月の「Silicon Graphics EXPO 1994」(パシフィコ横浜)では、HD-100とMP-100を使用して、当時“前人未踏”といわれた規模の108面キューブに精細なハイビジョン画像を映し出した。またHD-100は、1995年11月のマイクロソフト社「Windows95 Start Festa」イベントなどで運用された。

第16節 21世紀ビジョンの提唱

1988(昭和63)年6月のCI導入を機に、ヒビノは21世紀に向けた新たな社内的取り組みを加速した。同年8月にはCI運動の第2段階として、CI委員会に代わってHICS(ヒビノコーポレートスタイリング)委員会を発足した。同委員会は、社長の日比野を委員長とする、中長期ビジョン策定のための経営会議体で、さらに「営業主体のHICS Ⅰ」「業務主体のHICS Ⅱ」「技術主体のHICS Ⅲ」を各実行部隊として組織した。

同委員会のテーマは、今後の経営目標の体系化とロードマップの構築。事業戦略、組織体制、人材育成、管理などさまざまな面から「100ステップ」の課題解決をもって実現していくという、いわばインナー・キャンペーン的な意味合いがあった。

同年11月には資本金を1億円に増資。同12月には、2000年に売上高500億円、経常利益50億円を目指す長期事業計画「21世紀ビジョン」が、社長の日比野から全社員に向けて提唱された。

CIにおける対外的なコンセプトを「音と映像によるプレゼンテーション技術を提供するプロ集団」としたのに対して、社内コンセプトは「最新かつ最高水準の技術を作り出す柔軟でエキサイティングな集団」として、いずれも鍵となるのは「人」であるとした。

人材強化への具体的な取り組みは翌1989年からスタートし、従業員教育の機会として「ヒビノスクール」を開設した。

ヒビノスクールは、社会人としての基礎から高度なビジネス知識、部門別に必要となる専門知識まで、あらゆる社員に対応するカリキュラムを用意して、学びの場を提供するものであった。

技術主体のHICS Ⅲにおける「ヒビノ技術センター」(技術情報の集約と共有を推進するための社内機構として、1989年4月発足)もまた、情報交換会や勉強会等を通じて、従業員の技術レベルの向上を図る狙いがあった。

ヒビノのコーポレートロゴタイプを冠してサーキットを走るフォーミュラマシン
ヒビノのコーポレートロゴタイプを冠してサーキットを走るフォーミュラマシン

また一風変わった試みとしては、企業名の認知促進とリクルーティングへの効果を期待して、国内最高峰のカーレース・F3000チャンピオンシップ「MOLA C TWOレーシングチーム」へのチームスポンサードを開始した。社長の日比野は「モータースポーツのスピード感、メカニカルなイメージは、ヒビノの企業イメージにふさわしい」として、参戦を決定した。F3000最年少の21歳、金石勝智がドライバーを務めるフレッシュなチームは、全10戦中、最高位は9位と健闘し、鈴鹿サーキットや富士スピードウェイなど日本を代表するサーキットで、ヒビノの新コーポレートロゴタイプを冠したフォーミュラマシンが激走した。

翌1991年には、過去最多の45名を新卒採用するなど、ヒビノの将来を担う人材強化の取り組みは続けられていった。

第17節 福岡営業所、札幌営業所の開設

1989(平成元)年4月、大阪に続く国内拠点として福岡営業所を開設し、AVCシステム事業部における九州地区の拠点とした。当初は大型映像サービスと、映像機器を中心としたシステム販売を行っていたが、その後、大阪営業所が西日本広域まで販売エリアを拡大したことにより、1992年1月からは音響機器販売業務も開始し、大阪との連携を図るようになっていった。

さらに1991年10月には札幌営業所を開設。同営業所は現地でAV機器の販売を行っていた株式会社アイリスの事業を継承する形をとり、当初は音響機器販売をメインに業務を開始した。2000年9月からは、大型映像サービスにおいても、メディアランナーの北海道拠点として2台を常駐させて、札幌競馬場や自衛隊のイベントなどで運用実績を上げていった。

第18節 「ヒビノネット」スタート──衛星通信を利用したイベント映像を開始

衛星受信システム。全国100ヵ所サービス体制「ヒビノネット」構築
衛星受信システム。全国100ヵ所サービス体制「ヒビノネット」構築

1989(平成元)年に打ち上げられた通信衛星「JC-SAT」は、CS放送やSNG(放送素材配信)のほかに、企業団体向けの映像通信サービスにも活用が期待された。同年11月、製薬会社の三共株式会社(現 第一三共株式会社)が、日本サテライト映像企画株式会社(1990年、株式会社ビデオサットに商号変更、現 株式会社衛星ネットワーク)の衛星通信システムを利用したテレカンファレンスを実施した。AVCシステム事業部は、全国30会場のプロジェクターの設置とオペレートを担当した。翌1990年は全国100の会場に拡大、同様にプロジェクター設置とオペレートを行った。

そして1991年には、映像表示のみならず、衛星受信用パラボラアンテナを独自に購入し、衛星受信システム全般の運用業務を開始。全国各地の同業他社にパラボラアンテナを配付し、運用を委託することで、国内100ヵ所で同時中継が可能な映像通信ネットワークの構築を始めた。

当時のパラボラアンテナは直径120cmと大振りで、固定するスタンドには重いウエイトを置かなければならなかった。リスクヘッジのため、アンテナは本体と予備の2台体制を基本とし、設置場所は指向性を確認しながら、慎重に下見をして選んでいくという手間のかかる作業だった。

1993年1月には、同業他社との連携による「ヒビノネット」と称した全国100ヵ所サービス体制が整備された。このヒビノネットを活用して、全国的組織を持つ企業の社内イベントや、各種団体のセミナー案件などを受注していった。

2000年代以降はインターネットの普及など映像通信のインフラが多様化し、衛星通信のニーズは縮小を余儀なくされた。しかし、ヒビノネットによって全国の同業他社との協力関係が結ばれたことにより、このネットワークは、のちのメディアランナービジネスに生かされることとなった。

第19節 車載型大型映像表示装置「アストロビジョン」導入

車載型アストロビジョン2、3、4号車
車載型アストロビジョン2、3、4号車

松下通信工業が、放電管方式の大型ディスプレイをトラック(トレーラー)に組み込むことで移動を可能にする車載型大型映像表示装置「アストロビジョン」を開発すると、ヒビノは1989(平成元)年10月、当時世界最大級321インチのアストロビジョンを3台導入し、AVCシステム事業部でレンタル及びオペレート業務をスタートした。

プロジェクターやプロジェクションキューブは投影式の表示装置で、日中屋外での使用には向かなかったが、アストロビジョンは自発光式で、アウトドアで使用できる唯一の大型映像として、単発のイベント会場などでのレンタル利用が見込めた。

AVCシステム事業部は、“動く大型ビジョンカー”であるアストロビジョンを、モータースポーツや陸上競技といったスポーツイベント、また公営競技や各種式典、大規模コンサートなどで運用することで、徐々にレンタル実績を上げていった。

衛星受信システム搭載。アストロビジョン5号車
衛星受信システム搭載。アストロビジョン5号車

1990年8月には、衛星受信システムを搭載した新型アストロビジョンを1台追加導入。260インチの大画面は、高輝度5,000ニットで従来よりもさらに明るく鮮明なものとなり、衛星ネットワークによって遠隔地の映像情報をリアルタイムに提供できるというクオリティの高さを誇った。

ただし、アストロビジョンは車載型ゆえの限界もあった。本体重量(車両含む)は20tにも達し、床面の強度が重量に耐えられる場所でないと設置できず、また車載型のため搬入路が確保できない会場も多かった。さらに、画面の位置が低すぎて見づらいという問題もあった。1台平均4億円もの高額投資を回収するのは容易でなく、採算ベースに乗せるには困難を伴ったが、1993年10月には、画面を高さ2.2mまでリフトアップでき、また電源車も不要なトレーラー型新モデルを導入するなど、課題をクリアしていった。

画面のリフトアップが可能なトレーラー型のアストロビジョン6号車
画面のリフトアップが可能なトレーラー型のアストロビジョン6号車

業界に先駆けて導入したアストロビジョンの運用ノウハウや映像技術の蓄積は、のちのLEDディスプレイ・システムにつながる布石となった。

第20節 Showco社「Prism」スピーカーシステム導入

PA事業部は、ドームや大規模アリーナ(1983年 大阪城ホール、1987年 レインボーホール〈現 日本ガイシホール〉、1989年 横浜アリーナなど)の建設ラッシュによって拡大する大会場のコンサート案件に、より柔軟に対応できる新機材導入を模索していた。

そこでPA事業部は、1988(昭和63)年12月のボン・ジョヴィ東京ドーム公演で使用されたアメリカShowco社の「Prism」スピーカーシステムの導入に踏み切った。世界最大手のClair社に次ぐPA会社でありスピーカーメーカーであったShowco社(奇しくも同社は2000年にClair社に買収された)のPrismは、他に先駆けてデジタル信号処理を使ったスピーカーマネジメントシステムを搭載した最先端のシステムだった。

1989年8月、ヒビノはShowco社と業務提携を結び、Prismシステムの日本及びアジア地域における使用権を獲得した。正式導入に際しては、両社共同の「Hibino/Showcoプロジェクト」を結成し、技術情報の共有を図ることになった。

Showco社との提携契約の内容は、厳しい守秘義務を含むなど多岐にわたり、Prismの運用に際してはエンジニアへのトレーニングが義務づけられていた。システム理論から機材の構造、詳細な運用方法やリギング(吊り方)に至るまで、オペレーション上のすべてのマニュアルを学ぶために、PA事業部から2名をShowco社に派遣した。

Prismは、大会場での運用の際に起こりがちな「低音のムラ」という問題を、独自のデジタル信号処理によって解消するという点において、非常に画期的なシステムであった。ドーム、アリーナクラスでの使用を前提とする大掛かりなもので、実際の運用は必ずしも容易ではなかったが、当時はまだ未知の領域だったデジタル技術の一端に触れる機会にもなり、2000年以降急速に進んだ機材のデジタル化において、Prismの運用はそのノウハウの蓄積に役立ったという見方もできよう。

1990年2月、Prismはザ・ローリング・ストーンズ東京ドーム公演(全10公演)でお披露目となり、続く同3月のポール・マッカートニー東京ドーム公演(全6公演)でも使用され、ロック界のレジェンドの迫力あるサウンドを力強くサポートした。

同年3月、国内アーティスト初のPrism運用となった徳永英明の代々木体育館公演で好評を博すと、その後は多くのアーティストに採用されていった。

第21節 アメリカと韓国 海外進出の明暗

ヒビノの大型映像サービスが軌道に乗り始めると、次なる成長戦略として市場を海外に拡大する計画が持ち上がった。

社長の日比野は、日本の高い映像技術=ハードと、アメリカのさまざまなイベント=ソフトを融合した理想的なビジネスモデルの実現を企図し、1991(平成3)年4月、カリフォルニア州アーバインに資本金150万ドルで現地法人「Hibino Audio-Visual USA Inc.」(以下、ヒビノUSA)を設立した。初代社長には、Crown(AMCRON)の輸入を通して長年にわたり信頼関係を築いていた横田功が就任。

本社からは現場スタッフとしてAVCシステム事業部の社員1名、通訳兼事務担当として日比野(菊地)宏美(現 ヒビノGMC経営企画本部経理財務部海外課課長)が赴任。副社長・営業担当のジェームズ・アーバイン及び技術スタッフは、現地採用という形になった。

事業領域は、プロジェクションキューブを主力機材とした大型映像サービスを主とし、のちに拡大する計画だった。

初の受注イベントは、設立から2ヵ月ほどのちの6月、カリフォルニア州アナハイムのディズニーランドでのイベントだった。現地テレビ局のチャリティ番組のイベント会場にてプロジェクションキューブ9面の運用を担当。当初は別の会社に発注されていた案件だったが、その会社が都合で受けられなくなり、幸運にも設立したてのヒビノUSAに依頼が来たのだった。映像の調整には、本社のスタッフが渡米して当たり、ヒビノの映像技術はアメリカ・エンターテインメントのメッカで、高評価を得ることができた。

ヒビノUSAがサポートしたHewlett-Packardの展示会ブース
ヒビノUSAがサポートしたHewlett-Packardの展示会ブース

ヒビノUSAの営業ターゲットは、展示会を中心に、企業イベントや学会、テレビ番組にも及んだ。特にNovell、Hewlett-Packard、WordPerfect、IntelといったITベンチャー企業のイベント映像を手掛けるようになり、その後の足掛かりとした。中でもソフトウェア開発会社のNovellは、アトランタで開催されたコンピューター関連の展示会COMDEXにおいて、プロジェクションキューブを120台使用した大規模なブースを構築した。

ロサンゼルスのメインオフィスを拠点に、1993年に入るとラスベガスに機材管理センターを設置し、同年秋には東海岸のニュージャージーにオフィスを開設した。そして1994年、中部の大都市シカゴにあった同業のData Display社を買収する形で、新たにシカゴオフィスを、また同年の年末に自動車産業の中心地であるデトロイトにもオフィスを開設して、全米に営業ネットワークを広げていった。

アメリカ市場でも、ヒビノの高品位な映像機器と技術を提供するというのが、本社の意向だった。しかし、アメリカのイベント映像マーケットは中間業者を通さない直取引きが多く、総じてクオリティよりもコストに厳しかった。言い換えれば、美しい映像よりもレンタル料の安さが求められたため、商談はなかなかまとまらなかった。

NABショーでのデモンストレーション。アストロビジョン(1994年)
NABショーでのデモンストレーション。アストロビジョン(1994年)

1994年には車載型アストロビジョンを1年間の期限つきでアメリカに運び、同年ラスベガスで行われたNABショー(全米放送事業者協会主催の世界最大の放送機器展覧会)でデモンストレーションを展開したところ高い評価を得て、次にテレビ局MTVから、フロリダで行われるイベント「MTV ビデオ ミュージック アワード」への協力を求められた。宣伝効果を期待して、スタッフは西海岸のカリフォルニアから東海岸のフロリダまで、アストロビジョンを駆ったのである。イベントは成功を収めたものの、残念ながらその後の展開にはつながらなかった。

州法による規制の違いなど、さまざまな商習慣の違いによってヒビノUSAは苦戦を強いられた結果、1995年8月には横田社長が退任。本社の成岡武・取締役AVC販売事業部事業部長(当時)が、新たにヒビノUSAの社長として経営の刷新を図ることとなった。

これを機に本社をシカゴに移して他の拠点の整理を進め、アーバイン、デトロイト及びラスベガスのオフィスを順次閉鎖。同時に、これまでとは違ったフィールドでの新規顧客の開拓や、リピーターの掘り起こしを推進、同業他社との連携によって機材の現地調達ルートを開拓するなど、積極的な営業展開を図ったのである。また、これまでの営業網を生かして、新たに映像機器の販売業務も始めた結果、1995年にシカゴの「マイケル・ジョーダン・レストラン」へプロジェクションキューブ17面の納入に成功。続いてシカゴ交通局の管制センターへプロジェクター72台を納入、メンテナンス契約も結び、新たなビジネスが芽吹き始めていた。

しかし上場準備を進める本社の意向もあり、1997年3月、ヒビノUSAは解散となった。1993年から現地駐在員として勤務した小山匠は「砂漠の中に単身乗り出していったような経験は貴重なものだった。その後のグローバル展開に多くの教訓を残したと思う」と述懐する。

USAとほぼ同時期に、ヒビノとしては二度目の韓国進出も行った。

1992年に韓国民主自民党(当時)の党イベントの映像サポート業務を担当すると、その後も起亜自動車の新車発表会、JINRO(眞露)社の体育イベント、KBSテレビの音楽番組などの案件が続いたことで、この機にアジア地区への業務拡大を図るべく、現地の同業会社と合弁会社を設立する話が持ち上がった。1993年8月、ソウル市に資本金12億ウォンで「HIBINO KOREA株式会社」(韓國HIBINO株式會社)を設立。ソウルモーターショーや釜山モーターショーなどを受注したが、現地パートナー会社との連携が思うように運ばず、2002年3月、全株式を売却し撤退した。

第22節 ビデオプロジェクター「Talaria TLV-Turbo」導入

ビデオプロジェクター「Talaria TLV-Turbo」
ビデオプロジェクター「Talaria TLV-Turbo」

1991(平成3)年5月、AVCシステム事業部は当時世界最高の性能を持つといわれたビデオプロジェクター「Talaria TLV-Turbo」を2台導入した。最大600インチ、ハイビジョンにも対応する同機材は当初10台程度の限定生産品で、メーカーのアメリカGE(ゼネラル・エレクトリック)社は極東地域における割当台数を2台とし、その2台をヒビノが独占購入する形となった。

Talariaは、GE社がNASAのケネディ宇宙センター用に開発したモニターの技術を一般用に改良した製品で、単体ユニットだけでもカラー映写を可能にするものだった。そして1991年に発表した「TLV-Turbo」は、Talariaを3台使用しRGBによるカラー分解をしたうえで、油膜をフィルムに見立てて投射するというユニークな構造で、当時としては画期的な5,000ルーメンという明るさを実現し、暗転しなくても映像がくっきり見えるという性能を有していた。

一説には、ヒビノの運用技術の高さを見越して、GE社がヒビノを売り先として選んだといわれる。油を使う構造ゆえウォームアップやクールダウンに時間がかかり、同時にメンテナンスにも相応の手間がかかるというTLV-Turboは、高い運用技術なくしては、実際に使いこなすのは困難だった。運用に携わった堀田久幸(現 ヒビノビジュアル Div.業務部部長)は「使い方を間違うとクオリティが大きく変わってしまうという、アナログの権化のような機材でした。機材というより、まるで生きもののように感じました。それくらいデリケートでした」と回顧する。

プロジェクターは画像調整に一定のスキルが必要とされ、その調整技術を社内に蓄積してきた経緯があった。堀田をはじめとする卓越した技術を持つチームを、当時社内では「PJ(ピージェイ)隊」と呼んでいた。運用に高いスキルを要するTLV-Turboを極東地域で扱えるのは、ヒビノのPJ隊スタッフだけだった。TLV-Turboの導入は、ヒビノのプロジェクター運用技術を、国内のみならず世界的にも示したともいえよう。

Talaria TLV-Turbo調整の様子
Talaria TLV-Turbo調整の様子

Talaria TLV-Turboは、1991年5月、「社団法人実践倫理宏正会創立45周年記念式典」で初めて使用され、高輝度の液晶プロジェクターやDLPプロジェクターが本格導入されるまでの間、ハイエンドな映像が求められる、あらゆる案件でフル稼働した。

その性能を生かした代表的案件として挙げられるのは、NHK名古屋放送局による「ハイビジョン・オペラシアター」であろう。これは、ハイビジョン収録したオペラ作品を通して、ハイビジョン画像の美しさを味わってもらうという企画で、第1回は1992年10月に愛知県芸術劇場で行われた。

PJ隊は、ステージに設置した600インチのスクリーンに、より明るく鮮明なハイビジョン映像を映し出すために、TLV-Turboの基本仕様には設定されていなかったデュアル投影という手法にチャレンジすることを決め、独自の改造を施した。また、TLV-Turboを客席に置いた場合に生じる稼働音の問題を解決するために、客席最後部の映写室内に収まるよう、筐体の改造も行った。

こうした取り組みはNHK名古屋放送局から高い評価を得て、のちに感謝状を拝受した。「ハイビジョン・オペラシアター」はその後も断続的に開催され、ヒビノは2000年まで受注した。

なお、1992年2月に行った組織改正で、AVCシステム事業部を映像事業部に改組している。

第23節 録音中継車「ODYSSEY」導入──ライブレコーディング業務を開始

録音中継車 ODYSSEY
録音中継車 ODYSSEY

ライブ音源やライブ映像の収録というニーズは、パッケージ制作やテレビ中継、衛星中継など、さまざまな用途に広がりつつあった。そうしたニーズに応えるべく、1991(平成3)年9月に録音エンジニアとして豊富なキャリアを持つ熊田好容と佐々木猛が入社。映像と音づくりをさらに一体化させようと、当初はポストプロダクション業務(ウェストレイクスタジオ)強化の一環として、ライブレコーディングに対応する体制をとった。

1991年11月、高品位のライブレコーディングを実現するために不可欠な設備として、録音中継車「ODYSSEY(オデッセイ)」を導入、レンタルとオペレート業務を開始する。

ODYSSEYの内部。NEVE「VR48」と「4426」
ODYSSEYの内部。NEVE「VR48」と「4426」

装備に半年を費やしたODYSSEYの車内は、国内最大の広さと高さが確保され、さらにコントロールルームとマシンルームをセパレート化することで機能性と作業性を高め、音に集中できる最適環境になるような設計が施されていた。

車載のレコーディングコンソールはメインに当時最高峰のNEVE「VR48」、サブに同「4426」を採用、録音機材にはソニーのマルチトラックレコーダー「PCM-3348」、同デジタルレコーダー「PCM-7050」、さらにハイビジョンモニターも搭載した。最新鋭かつハイエンドな機材を惜しげもなく投入したODYSSEYは、実にヒビノらしい贅沢な仕様となっていた。

ODYSSEYのデビューは、1991年11月の矢沢永吉の日本武道館公演で、テレビ放送及びライブビデオ用の収録に使用された。その後ユニコーン、ポーラ・アブドゥルなどのライブレコーディングを次々と請け負い、幸先の良いスタートを切った。

「ODYSSEY」の命名は熊田の発案による。古代ギリシャ時代に書かれた長編叙事詩に『オデュッセイア』があり、主人公オデュッセイアの長い旅が語られている。これを語源として、現代では「長い冒険の旅」を意味する言葉として使われており、熊田はODYSSEYに「呼ばれればどこへでも、宇宙(ほど遠い場所)にだって行きます」という気持ちを込めたのだという。

さらにヒビノの車載型アストロビジョンの「アストロ」もギリシャ語で「宇宙」の意味があり、そうした共通性も命名決定の後押しとなった。