社史

映像部設立──映像サービス事業スタート

映像部アルバイト時代の日比野晃久映像部アルバイト時代の日比野晃久

映像部アルバイト時代の日比野晃久

 1984(昭和59)年5月、「映像部」を設立して、映像サービス事業を本格的に始動させた。映像部のスタートに当たって、社長の日比野は「できるものはなんでもやってみよう」と、当時ニーズがあったプロモーションビデオ(PV)やカラオケビデオなどの映像制作に乗り出すことにした。創業以来一貫してハードの分野で成長してきたヒビノ電気音響にとって、ソフトの領域はいわば初の試みであり、その意味でも大きな決断といえた。
 その立ち上がったばかりの映像部に一人の大学生がアルバイトとして入ってきた。創業者の長男で、現社長の日比野晃久であった。
 晃久は1962(昭和37)年7月生まれ。浅草橋という気取りのない下町で幼少時代を過ごし、自宅にあった音響機材をおもちゃ代わりにして遊ぶなど、早くから父親譲りの機械好きであった。小学校時代には蒸気機関車(SL)の音を録音するためにデンスケ(ショルダー式テープレコーダー)を背負って地方に出掛けたり、ラジオやオーディオアンプなどを自作するかたわら、事務所に積まれていたジュークボックス用のレコードで、洋楽、邦楽問わず音楽にも親しんだ。PA事業部が立ち上がった頃には、毎週日曜日、豊島園の特設ステージで行われていた歌謡コンサートに、父の助手として毎回通った。

PAシステムに向かう日比野宏明(左)の隣でフェーダーを握る少年時代の日比野晃久(中央)。富士山麓で開催された西城秀樹の野外コンサートにて(1975年)PAシステムに向かう日比野宏明(左)の隣でフェーダーを握る少年時代の日比野晃久(中央)。富士山麓で開催された西城秀樹の野外コンサートにて(1975年)

 中学・高校と放送部に所属し、コンソールの前に座ることが楽しくて仕方がなかった。高校の文化祭では、JBLスピーカーやミキシングコンソールなどプロ用の機材を借りて、コンサートのPAオペレーターを務めた。父の仕事を間近で見ながら育った晃久は、プロの機材やエンジニアに対する憧れを強くする。そしていずれは父の会社で働くことを意識し始めた。

中学校の謝恩会で本格的なPA機器を持ち込み、オペレートする晃久中学校の謝恩会で本格的なPA機器を持ち込み、オペレートする晃久

 大学時代は応用物理を専攻し、併せて当時先端技術であったCG(コンピューター・グラフィックス)の基礎を学んだ。長年、PAオペレーターになることを夢見てきた晃久だったが、ある音楽雑誌の記事をきっかけに「映像」への興味を深めていくことになる。それは海外アーティストが全米ツアーで、大型ビデオプロジェクター「アイドホール」を使った舞台演出を行っているという内容だった。晃久は、映像の持つ大いなる可能性を感じ、心が躍ったという。
 大学4年生になり、新規部署の映像部をアルバイトで手伝うようになった晃久は、駆け出しのADとして映像制作の仕事に取り組んだ。朝から晩まで休みなく走り回り、手掛けたカラオケビデオは演歌を中心に30本余りにのぼった。中には制作費を抑えるため自ら出演した作品もあったという。無我夢中で働いた1年が過ぎ、1985年4月、晃久は正式にヒビノ電気音響に入社し映像部に配属された。
 そして父であり社長である日比野宏明は、映像部での晃久の働きぶりを見て、すでに確立されたPA事業部ではなく映像部の将来を託してみようと考えたのである。

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※ここに掲載した情報は、2015年2月発行の「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より転載したものです。この記事の無断引用、無断転載を固く禁じます。

第3章 拡大期 1984〜1993

音と映像のプレゼンテーター誕生

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