社史

大型映像サービス開始──国内初のコンサート映像演出を実現

入社当時の日比野晃久入社当時の日比野晃久

 映像分野について、社長の日比野がイメージしていたのは「音楽と映像の融合」だった。中でも注目していたのが大型映像で、その可能性を考えたとき、ヒビノの強みが生かせるのは「コンサート映像」だと考えていた。
 また、晃久も同様の意見を持っていた。「音楽と映像の融合」について、晃久がまずイメージしたのは、1981(昭和56)年にアメリカで開局したケーブルテレビの音楽専門チャンネル「MTV」(エムティービー:ミュージックテレビジョン)で繰り返し放送されていたプロモーションビデオ(PV)だった。アーティストの個性や曲のイメージに合わせてオリジナル制作されたPVは、MTVの定着とともにクリエイティブな作品が数多く発表され、マイケル・ジャクソンの「スリラー」(1983年シングルリリース)を一つのピークとして、その後の音楽ビジネスに必須のアイテムとなった。
 MTVの登場によって、すでに音楽と映像の融合は始まっていたともいえ、映像によるさまざまな演出効果は、ライブステージでも生かせるはずだと晃久は考えたのである。
 しかしコンサート映像を実現するには、数々の大きな壁があった。
 当初、日比野はPA事業部を通してコンサートにおける大型映像導入の提案を行い、その後の運営を任せようとした。しかしPAのスペシャリストとして、コンサート音響のクオリティを追求してきたという自負が強かったPA事業部のスタッフは、ステージに映像を持ち込むことに対して強い違和感を示した。仮に映像を使うにしても、取引先から「余計なものに予算はとれない」と拒まれるに違いないと。
 海外では、すでにステージ演出に大型映像を取り入れる事例があったが、その多くは大型ビデオプロジェクター、アイドホールを使ってスクリーンに映像を映し出していた。しかし、アイドホールを使用するには客席に足場を組まねばならないこと、また重量が500sもあって機材を足場へ上げるのに重機が必要となるなど、日本のコンサートではコスト面でとても見合うものではなかった。
 何より、コンサート本番までの限られたセッティング時間を映像にも割くとなれば、アーティストから貴重なリハーサルの時間を奪うことになりかねない。ヒビノのPAの基本は、アーティストの音づくりのためにできる限り短時間でセッティングすることを旨としていた。そのためのスキルとノウハウを磨いてきたPAスタッフからすれば、映像は異物であり、邪魔ものに映った。実際、当時のコンサート関係者の多くが、同様の考えを持っていた。「映像がほしい」といってくれる顧客は、なかなか現れなかった。
 それでもなお、新しいことにチャレンジしようと考えるアーティストがいた。人気ロックバンドのARBだった。ARB OFFICEの藤井隆夫社長がステージ上に映像を持ち込むことに興味を示し、予算100万円という条件でゴーサインをくれた。赤字は確実だったが、晃久はまず実績を積むことが大事だと考え、映像素材の準備から機材の調達、ライブ当日の設営・オペレートに至るまで、自前でできることはなんでもやろうと決めた。10曲分の映像素材の企画・構成から撮影、編集も自ら手掛け、曲のイメージに合わせた映像を作り上げていった。

ARB(日比谷野音、1985年)。映像システム仕込中の日比野晃久ARB(日比谷野音、1985年)。映像システム仕込中の日比野晃久

ARB本番ステージ。初のコンサート映像演出ARB 本番ステージ。初のコンサート映像演出

 1985年4月、ARBの日比谷公園大音楽堂(日比谷野音)ライブで、ヒビノ電気音響映像部による国内初のコンサート映像演出が実現した。
 ステージ中央には、リアプロジェクターの15面マルチビジョンを設置した。バンドの演奏に合わせてさまざまな映像が流れるというステージを初めて体験した観客は、みな驚きを隠さなかった。
 藤井社長の力添えによって、舞台監督はじめ全スタッフが、この画期的な取り組みを前に一致団結したからこそ、成し遂げることができた大きな夢の実現だった。
 この国内初の「音楽と映像の融合」は話題を呼び、シンガーソングライター、矢野顕子の全国ツアー「BROOCH(ブロウチ)」での映像演出が企画されると、映像部に依頼が舞い込んだ。演出担当は、ミュージシャンでありステージデザイナーでもある立花ハジメだった。ステージの両サイドにCRT(ブラウン管)モニター各8台をタワー状に積み上げて、マルチビジョンを構築。ほかの美術道具は一切置かず、スイッチングによってそれぞれの画面に異なる画像を映し出す演出は、観客に強いインパクトを与えた。このBROOCH(ブロウチ)ツアーは、全国ツアーでマルチ映像演出を使用した日本初の例となった。
 コンサートに絡む案件の受注は、初年度は4件程度に終わった。依然多くのアーティストは音が主役と考えており、ステージに映像を持ち込むことへの理解は容易には得られなかったが、ARBや矢野顕子のツアーでの成果に晃久は大きな手ごたえを感じていた。
 晃久はあらためて「コンサート映像」に目標を定めた。そして、映像部の方針書に「レンタル屋にはならない」と明確に記した。ヒビノのコンサート音響事業が、レンタルからオペレート、そしてエンジニアリングの分野に乗り出していったように、映像サービス事業にもあえて高いハードルを課す決意を込めていた。見る人に喜びと感動をもたらす映像表現を追求し、オペレートも含めた付加価値で勝負していこうと考えたのである。
 一方、映像部設立時に開始した映像ソフト制作業務は、テレビ局出身のスタッフが次々と入社してくると、テレビ番組の制作にも乗り出した。さらに1988年には、カメラ中継やハイビジョン収録などの技術サービスを提供する部門を新たに設置するなど、ハード・ソフトの両面から強化を図った。

ハイビジョン収録車ハイビジョン収録車

 ヒビノが目指すべき映像サービス事業の確立に向けて、暗中模索の歩みが始まった。そして、1980年代後半から全盛となる展示会や博覧会映像への進出が、大きな成果を残していくことになる。

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※ここに掲載した情報は、2015年2月発行の「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より転載したものです。この記事の無断引用、無断転載を固く禁じます。

第3章 拡大期 1984〜1993

音と映像のプレゼンテーター誕生

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