社史

「街の科学者」と呼ばれた創業者・日比野宏明

 設立50年を迎えたヒビノ株式会社。その創業者である現会長・日比野宏明は、1934(昭和9)年3月、現在の神奈川県横浜市磯子区に生まれた。
 4歳のときに父親を亡くし、一家は東京都品川区戸越に居を移す。将来は堅実な道を歩んでほしいと願った母・美代と小学校の担任教師の勧めにより、中学は商業学校に進学した。日比野はそこで機械いじりの才能に目覚める。
 級友の影響を受けて、鉱石ラジオや5球スーパーラジオなどの組み立てに興味を持ったのである。当時神田駅付近に軒を連ねていた露店でラジオ用の部品を調達すると、こつこつと時間をかけて組み立てた。完成したラジオのチューニングダイヤルを合わせると、スピーカーから音楽が聴こえてきた。組み立てラジオの音は、決していい音質ではなかったが、自分で作ったラジオの音は、耳に心地よかった。
 日比野少年は、ラジオの組み立てを通して、好きなことには人一倍打ち込める自分を発見した。次はより完成度の高いモノを作ろう、今度はいい音の鳴るオーディオ機器を作ってやろう……好きなことを突き詰めるために、新しい知識を学んだり工夫を凝らしていくことは、日比野にとっては努力というより楽しみであり、趣味だった。

中学生時代の日比野宏明中学生時代の日比野宏明

 やがて日比野の腕前は、近所の人たちにも知られるようになった。ラジオの組み立てを依頼されて手間賃をもらうこともあった。「思えば、少年時代のラジオの組み立てが、ヒビノのビジネスの前身のようなものだった」と日比野は回顧する。
 高校は電機学園高等学校(現 東京電機大学高等学校)の夜学に進んだ。昼間は家計を助けるために、実家の近くにあった変圧器(トランス)を扱う会社でアルバイトにいそしんだ。日比野はコイル巻きを任されたが、ラジオの自作経験があり、手先も器用だったことで、誰よりもはやく上手に巻くことができた。
 アルバイト収入の一部は趣味のパーツ購入に充てた。ラジオに飽き足らず、電気蓄音機(電蓄)やウィリアムソン式真空管アンプなど、本格的な音響機器も自作するようになった。工夫を重ね、音質を確かめながら何度も聴くうちに、音楽そのものも好きになっていった。戦後に流行したスウィングジャズの軽やかな調べ。自作の音響機器を通して音楽を聴くのが楽しくて仕方なかった。

15歳の頃の宏明(右端)。工場のアルバイト仲間と15歳の頃の日比野宏明(右端)。工場のアルバイト仲間と

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※ここに掲載した情報は、2015年2月発行の「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より転載したものです。この記事の無断引用、無断転載を固く禁じます。

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