社史

神楽坂にて「日比野電気」開業

営業車のオートバイに乗る日比野宏明(1956年・創業当時)営業車のオートバイに乗る日比野宏明(1956年・創業当時)

 1956(昭和31)年6月、テレビの販売・修理を営む個人商店「日比野電気」を開業した。当社の創業の地となるその場所は東京都新宿区神楽坂。事務所は神楽坂商店街に面した間口一間、奥行き一間半、わずか3坪の貸事務所だった。さらに、住居兼テレビの修理場として、事務所に隣接する2階の4畳半一間を借りた。
 神楽坂に店を構えたのは、東京の地図を見て、ほぼ真ん中に位置するからだった。鞄いっぱいに修理用のパーツと工具を詰め込んで、唯一の会社資産であるオートバイを駆って修理や営業に回る仕事である。東京のどこに行くにも便利な場所はその中心部という発想だった。家賃は電話付きで月5,000円。営業や出張修理に出る際は、大家さんが電話番を買って出てくれた。とはいえ、縁もゆかりもない土地で、資金も人材もなく、あるのは自分の技術だけ。実質ゼロからのスタートであった。
 ちなみに当時の修理代は、テレビのチューナー修理が350円、真空管交換600〜2,000円、ブラウン管交換4,000円。客から頼まれればトースターや洗濯機、冷蔵庫など家電の修理も請け負った。

日比野電気時代の自作テレビ(左・中) 自作のHi-Fi電蓄(右)(神楽坂時代)日比野電気時代の自作テレビ(左・中) 自作のHi-Fi電蓄(神楽坂時代)(右)

 修理業務のかたわら、自作テレビの販売も始めた。1956年当時、家電メーカーのテレビは14インチで15万円前後、一般家庭への普及率は1%にも達していなかった。そこで、日比野は部品を自己調達してテレビを製作し、5万円という破格の値段で販売した。すると、口コミだけで注文が殺到し、3日に1台のペースで組み立てては即納という状況になった。
 売れたのにはちゃんと訳があった。単に安価なだけでなく、不具合が生じたら日比野自身がオートバイで修理に出向いたのだ。テレビを組み立てた当人が修理にも来てくれる。この万全のアフターサービスが顧客の信頼と評判につながり、日比野電気のテレビは飛ぶように売れた。
 10代の頃から個人で手掛けてきた音響装置の製作も続けていた。昭和30年代以降、ジャズ喫茶や名曲喫茶など、音楽を売りにする喫茶店が一大ブームになり、各店がこぞって音響装置を導入し始めた。少年時代から電蓄やオーディオアンプの自作を手掛け、配線やスピーカーの埋め込み工事くらいはお手のものだった日比野は、都内の喫茶店経営者から店内の音響装置の一切を任されるようになった。
 この音楽喫茶の仕事を通じて、日比野は生涯の伴侶となる妻・純子と出会う。純子の姉夫婦は、東京都台東区台東(旧 竹町)で「エデン」「ベニス」「青い城」という3軒の音楽喫茶を経営しており、日比野は音響装置設置者として頻繁にこれらの店を訪れていた。学生だった純子はレジの手伝いをしていた。
 真面目で働き者の日比野を気に入っていた姉の仲立ちによって、二人の付き合いが始まった。初めてのデートでは、映画館でイタリア映画を観た。
 ある日二人でドライブに出掛けたときのこと。道すがら、日比野は純子にこうつぶやいたという。
「いつかは、松下電器を追い越すぞ」
 純子はそんな日比野を頼もしく思うようになっていった。

新婚時代の日比野宏明と純子(1958年頃)新婚時代の日比野宏明と純子(1958年頃)

 二人は1957年11月に結納を交わし、翌58年2月に結婚。新婚旅行は日比野が車のハンドルを握って箱根と伊豆下田に出掛けた。
 神楽坂のビル2階の4畳半で、二人の新婚生活が始まった。とはいえ、高校卒業後に社会経験を経ずに嫁いだ純子にとっては、結婚と就職を同時にしたようなものだった。最初の頃こそ、電話番や納品前のテレビのブラウン管を磨くだけだったが、そんな日々は長くは続かなかった。1959年4月、皇太子ご成婚をきっかけに、テレビは爆発的に普及。ブームに乗って日比野電気の業績も上昇した。しかも、開業以来の年中無休・24時間対応である。日比野一人で店を切り盛りするのも限界に達していたが、日本経済が上り坂にあったこの時期、小さい事務所では求人を出しても良い人材は集まらない。そこで純子は、多忙な夫を助けるべく、通信教育で経理の勉強を重ねて事務や経理の仕事を肩代わりし、やがては資金繰りまでも引き受けるようになる。

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※ここに掲載した情報は、2015年2月発行の「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より転載したものです。この記事の無断引用、無断転載を固く禁じます。

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