社史

ヒビノオリジナル「HH3000」「BINCO」スピーカーシステム完成

BINCOシステムBINCOシステム

 宮本は日常の仕事のかたわら、白金の新事業所の倉庫でMartin Audioのスピーカー「マーティン・ビン(Bin)」を模倣して自作してみたり、JBLの文献や専門雑誌を読みあさった。
 その結果、当時のPA用スピーカーシステムに使われているホーンの主流が「エクスポネンシャル(=指数)ホーン」であると認識したうえで、スピーカーユニットのコーン紙の動きを空気中に効率よく伝えるには、「ハイパボリック(=双曲線)ホーン」という方式もあることを知った。
 エクスポネンシャルホーンの場合、周波数特性をあまり損なわずに入力の15〜20%程度のパワーで出力されるのに対し、ハイパボリックホーンは周波数特性こそ狭くなるものの、40〜50%のパワーを出せる。
 JBLと同じ方式でやるのでは意味がないということで、あえて主流でないハイパボリックホーンを組み込んだスピーカーシステムを試作することにした。大学以来となる関数計算も、筆算ではとても間に合わないので、高価な関数電卓を購入して図面設計に取り組んだ。

HH3000開発時の様子。掛川でスピーカーの音響測定(左・右)HH3000開発時の様子。掛川でスピーカーの音響測定(左・右)

 そして木工会社にエンクロージャーを発注し試作機ができあがると、JBLの輸入元であった山水電気株式会社(当時)の掛川工場内の無響室を借りて測定を行った。理論どおり、従来のエクスポネンシャルホーンの周波数特性は良かったが、音圧が減速して足もとに来るイメージだった。それに対し、試作したハイパボリックホーンは、重低音の周波数特性はやや劣るものの、音にパンチがあり、音圧がお腹のあたりにズドンと来るインパクトがあった。宮本は思った。
「音がお腹に来る気持ち良さは、ほかのスピーカーでは出せない。僕らはこれでいこう」
 JBLの15インチユニットを2発とハイパボリックホーンを組み合わせたヒビノ初のオリジナルウーファー「HH3000」。「HH」は“ヒビノ・ハイパボリック”の略だった。
 HH3000のデビューは1976(昭和51)年9月、沖縄出身のハードロックバンド「紫」のコンサートだった。今やオキナワン・ロックの伝説的存在といわれる紫も、当時はファーストアルバムをリリースしたばかりの新進気鋭のバンドであった。パワフルかつスピード感あふれる彼らの演奏は、ハードロックファンを圧倒する爆音とともに鮮烈な印象を残した。
 また、初の海外アーティスト案件は、同年10月のウィッシュボーン・アッシュ来日公演(中野サンプラザ)だった。HH3000を片側8台使用し、同バンドのツインリードギターの迫力が会場を圧倒した。その音圧は、客席最後部でも見事にお腹に響くものだった。これまでにない迫力あるサウンドを実現したことで、ヒビノのコンサート音響事業はさらなる成長を遂げたのであった。

1ウィッシュボーン・アッシュ(中野サンプラザ、1978年)。HH3000初の海外アーティスト案件ウィッシュボーン・アッシュ(中野サンプラザ、1978年)。HH3000初の海外アーティスト案件

 1978年初頭、ボブ・ディランの音響全般を担当しているアメリカのStanal Sound社のスタン・ミラー社長から「2月の日本武道館では、ヒビノはどういうスピーカーを用意してくれるのか」という問い合わせが入った。宮本がHH3000のシステムを提示すると、思いがけない答えが返ってきた。
「ボブ・ディランのコンサートは、ロックコンサートではない。あくまでボブのボーカルがメインだから、ボーカルをきちんと聴かせるシステムでなければ駄目だ。間に合わなければ、ショーはキャンセルする」
 ヒビノが要求に応えられなければ、“フォークの神様”のコンサートそのものが中止になるかもしれない。強烈なプレッシャーの中で、宮本と橋本は急遽対応策を練ることとなった。ミラー社長の言い分は、HH3000のシステムはボーカルの帯域がラジアルホーンから出てくるのが問題だというものだった。「ボブのボーカルはあくまでコーンスピーカーから直接出すのがポリシーだ」と。
 宮本と橋本は、ボーカルの帯域をコーンでカバーするために、どのスピーカーをどう組み合わせるのが良いか、夜を徹して白金の倉庫で研究に当たった。1977年12月に来日公演を行ったフリートウッド・マックが使用していたClair社の「S4」など具体的な例を参考にしながら、試行錯誤を重ねた。
 二人はHH3000の15インチ2発に対して、最初は12インチ4発で試してみることにした。直前に来日していたギタリスト、ロリー・ギャラガーの公演の音をカセットテープに録音し、インストゥルメンタル曲の「Edged In Blue」のイントロ部分(ドラムスがフィルインする箇所)を繰り返し聴いた。12インチは実にドラムらしい音を出したが、宮本の耳にはややぼやけた音に聴こえた。次に10インチを組み合わせて試すと、音がグッと締まった。
 「これでいける」と発注をかけたところ、できあがってきた品は、バランスを崩して倒れてしまうという代物になっていた。二人が音響特性を最優先で考えたため、頭でっかちの構造になっていたという初歩的なミスだった。その後、設計の修正を加えて完成したのは、結果としてあの「マーティン・ビン」とやや似たシステムになった。そこで、ネーミングは“ビンの子ども”だから「ビンコ(BINCO)」とした。型番は“ヒビノ・バッフル”から「HB」、HH3000と同様に4ケタの数字をつけて「HB2000」とした。
 1978年2月20日、ボブ・ディラン日本武道館公演はこの日を皮切りに、当時の武道館では最多記録となる8回公演を果たした。BINCOシステムは、Stanal Sound社のスタッフから絶賛され、同公演は大成功を収めた。

ボブ・ディラン初来日公開(日本武道館、1978年)。BINCOシステムを初運用(上・下左・下右)ボブ・ディラン初来日公開(日本武道館、1978年)。BINCOシステムを初運用(上・下左・下右)

 その後BINCOシステムは、同年6月のヴァン・ヘイレン来日公演でも大量に採用され、他社に比類なきヒビノのオリジナルスピーカーシステムは、コンサート音響事業の拡大を牽引する象徴的存在となった。
 社長の日比野は、創業時から「顧客の要求にCan Notとはいわない」というモットーがあった。BINCOは、押しつぶされそうなプレッシャーの中で、志ある若い二人が寝食を忘れて作り上げた、情熱の賜物だった。

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※ここに掲載した情報は、2015年2月発行の「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より転載したものです。この記事の無断引用、無断転載を固く禁じます。

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